安倍首相のあまりにも軽い信念と、首相の変節を喜ぶ軽薄なメディア

 先週の国会での予算委員会審議で、先の大戦での日本の戦争の侵略的性格を認め謝罪した「村山首相談話」と、従軍慰安婦問題に関する「河野官房長官談話」とを受け入れ、さらに今回の訪中では自らの「政経分離」論を引っ込め、むしろ中国が主張する「政経両輪」論とでも言うべきものに与し、かくて実現した訪中をどう見るべきか。


 日中首脳会談が行なわれること自体はもちろん結構なことである。しかし、ここまで安倍首相が変節したとなると、いったい安倍という人間の考えはどこにあるのかということが問われなければならない。このような軽々しい考えの人間を首相に戴いていてよいのかどうか、という点は当然問われなければならない。


 ところが、首相の訪中を伝える各紙の社説は一様に歓迎一色である。
毎日新聞「日中首脳会談 心機一転で安定した関係を」
http://www.mainichi-msn.co.jp/eye/shasetsu/news/20061009k0000m070125000c.html
東京新聞「感情的対立に終止符を 首相公式訪中」
http://www.tokyo-np.co.jp/00/sha/20061009/col_____sha_____002.shtml
読売新聞「[日中『互恵』関係]「北朝鮮問題が試金石になる」」
http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20061008ig90.htm
朝日新聞「日中会談 これで流れを変えたい」
http://www.asahi.com/paper/editorial20061009.html#syasetu1


 中には、毎日新聞論説委員(つまり、社説を書く人間の一人ということだろう)の次のような軽薄なコラムもある。
「発信箱:首相の変節を評価する=与良正男
http://www.mainichi-msn.co.jp/eye/hassinbako/news/20061009ddm002070041000c.html
(引用開始)
「首相が自分の過去の発言にこだわらず、軌道修正したのを歓迎したいと思う。ポスト団塊世代の強みは、柔軟さ、軽やかさでもあるのだ。
 とにもかくにも会談が再開されてよかった。まだ検証が必要だが、中国側も反日路線を転換しようとしているのだろう。首相が、まず前政権から突き刺さっていたトゲを抜こうとしたのも当然の判断だ。首相はポイントを稼いだと素直に認めた方がいい。
 で、「安倍らしさ」を求める人たちは、今度は「首相は変節して自虐的になった」と言うのですかね。そして、「歴史認識で攻めれば、ちょろいもの」とみていた民主党はどうする?」
(引用終了)


 「首相はポイントを稼いだと素直に認めた方がいい」とある以上、「ポスト団塊世代の強みは、柔軟さ、軽やかさでもあるのだ」という言葉を皮肉と読むことは困難である。言論人が言論をこれほど軽く扱ってよいものだろうか。もちろん、言論人失格の言辞だと評さざるをえない。


 しかしながら、安倍の歴史認識が100%変わったというわけでないことは、先週の国会審議からも明らかである。例えば安倍は審議の際に、サンフランシスコ講和条約第11条の「判決を受け入れた」という箇所を、戦犯の刑期が継続するということの確認という意味で書かれたのだという、問題を矮小化する解釈を披露してみせたが、もちろんそれはおかしいのであって、日本政府は極東軍事裁判による戦犯の断罪を認め受け入れた、そのことを第11条は確証するものなのだと理解するべきである。


 ともあれ、もし安倍が変節を演じ続けることができれば、そのことによって安倍は自分の信念などどうでもよい人間であることを自ら証明することになる。それは、少なくとも私にとっては、首相失格を自ら証明することにほかならない。また、変節を演じ続けることができなければ、その時には問題が事実のレベルで生じてくることとなろう。


 最後に、失格言論人が書いていた「民主党はどうする?」について。別にどうすることもないが、村山談話を受け入れる首相であれば、当然例えば、追悼のための無宗教の国立施設を建設することにも肯定的でなければならないはずである。教科書の内容で侵略戦争に関する記述でごちゃごちゃ横槍を入れることはないはずである。首相の変節を、賞賛することなくただ監視し続ければよいだけの話である。