脳死と臓器移植−−要するに、人間の材料化、ということ

 脳死をそのまま人の死とする
「臓器の移植に関する法律の一部を改正する法律案」(第164回国会提出、議案番号14。いわゆる臓器移植法改正A案)
と、
「本人の提供の意思を大前提とする現行法の考え方を基本として、その意思表示を行える年齢を15歳から12歳に引き下げる案」(提案者の公明党の斉藤鉄夫衆議院議員の説明)である
「臓器の移植に関する法律の一部を改正する法律案」(第164回国会提出、議案番号15。いわゆる臓器移植法改正B案)
とが、今臨時国会に上程されており、可決・成立する可能性、というより危険性、が高いということで、ビデオニュース・ドットコムの<マル激トーク・オン・ディマンド第288回>では臓器移植反対派の小松美彦氏をゲストに「私が脳死移植に断固反対する理由」という番組が放映されている。


 特に問題なのはA案なので、以下A案のみを問題にすることにする。まず私自身の立場を明確にしておくと、私は今回の法改正にはもちろん反対であり、また後述するように、臓器移植一般の意義に対してもきわめて懐疑的である。


 2005年2月に上記小松氏と、臓器移植推進派の上智大学法学部の町野教授とがパネリストとなっていたシンポジウムを傍聴したことがある(私の記憶違いでなければ、確かA案は町野氏の私案が基になっていたのではないかと思われる)。その時の記憶も交えて書くと、シンポジウムにおいて町野氏は「脳死こそが人の死である」という論点を強調していた。つまり、死体だからこそ、そこから臓器の摘出が行なわれても倫理的に問題がない、というわけである。


 しかし、動いている心臓を有する体が死体であるというのは、どう考えても従来の死の観念に反すると言わざるをえない。この関連で、番組でもまたシンポジウムでも、いわゆる脳死状態にある体では、外部に対して反応を示すこと(output)はできないが外部からの刺激を受け入れること(input)はできるのではないかという可能性が指摘されていた。この点は真剣な研究を通じて真実を明らかにすることが可能な論点であり、真摯な科学者の研究に期待するほかない。さらに番組では、脳死者の女性が子どもを産むことができるという指摘もあった。これなどは、虚心坦懐に考えれば、(死から生が生じるわけはないのだから)脳死が死であるという理解に対する決定的反証であると言えるのではなかろうか。


 さらに言えば、常識的に考えて、臓器移植推進派が狙っているのは「生きの良い」臓器の供給を増やすことだろうと思われるが、そもそもこの点自体に矛盾があると言えないだろうか。すなわち、例えば「生きの良い」魚を調理しようとする場合には、その魚を直前まで生かしておいて、それを殺した上ですぐに調理するということが行なわれるのではないかと思われるが、それと並行的に考えれば、「生きの良い」臓器を供給するという場合、ぎりぎりまで生かしておいて臓器を摘出するということが含意されていると言えるのではないだろうか。脳死は「ぎりぎりまで生かしておいた状態」に当たるのでないかどうか、また、臓器摘出は或る意味で「殺す」ことなのではないか、という疑念は容易にはぬぐえない。番組でもシンポジウムでも指摘されていた、臓器移植の際には脳死体に麻酔が打たれる(暴れないために)という事実が、ここで想起されるべきだろう。


 脳死臓器移植の問題はこれに尽きない。例えば、臓器提供の意思を表明している人(或いは、A案が可決・成立した暁には、臓器提供しないという意思を表明している人以外の人)が瀕死の状態で救急医療の場に運ばれてきた場合、医者はどこまで真剣に救急医療に取り組むだろうか。医者が移植医療に積極的であればあるほど、このような場合における救急医療はないがしろになるのではないかという疑念は、容易にはぬぐえない。これは、安楽死の問題(安楽死の問題は私には、命を救うべき医師が命を殺すことに手を染めてよいのかどうか、という問題に見える)と同様、医療一般の信頼性にかかわる大問題であるように私には思える。


 ならば、生きている健康な人間の臓器を移植することは良いかどうか。この点については、臓器を提供する側が全く自発的に臓器を提供する旨申し出る場合には、それを否定する資格は、もちろん私にも、また他の誰にもないだろう。しかし、もし私が立法上の独裁的権限を有するなら、私は臓器提供は基本的に(もちろん罰則付きの)違法とし、但し臓器提供者側の臓器提供意思表明が、臓器摘出に伴う健康リスクなどを当人が十分理解した上でのことであり、かつ完全に自発的なものであることが立証される場合に(そしてその場合にのみ)、違法性が阻却されるという形に法律を構成するだろうと思う。臓器摘出は例外なしに、刑法に基づく捜査対象とされるべきである。なぜなら、その行為自体は客観的には、或る人間の身体の毀損でしかないからである。(同様にして、脳死臓器移植の場合も、臓器提供者側の臓器提供意思表明が、脳死状態とはどういう状態か等々に関する十分な理解を当人が得た上で、完全に自発的に行なわれる場合にのみ、違法性が阻却されるという形で認められるべきだと思われる。どちらの場合にも、現在行なわれているようなドナーカードでの意思確認というような形では全く不十分であり、意思確認に当たっては説明役の医師の関与が不可欠だと考える。)


 この点は、さらに掘り下げるなら、人間の尊厳とは何だと考えるかという点まで到達せずにはおかないだろう。臓器移植との関連で言えば、人間の尊厳とは、一個の人間が自らの身体的全体を自らの意思にのみ服せしめることができ、他の誰の意思にも服せしめられることがないことだ、と言えるのではないだろうか。さらに、人間は全体であり、材料であってはならないということだ、と言えるのではないだろうか。臓器移植がつまるところ人間の材料化であり、その推進が人間の材料化の推進であることを思うなら、それに対して真に歯止めをかけるには、このような考えに立脚するほかはないように思われる。ここで論じていない、胚細胞の利用をめぐる問題も、臓器移植の問題と並行的な問題だと言えるが、それに対しても、この同じ考えこそが、真の歯止めたりうるように私には思われる。


 このような思想を伝統のうちに求めるなら、例えば『孝経』の冒頭の有名な言葉「身体髪膚、之を父母に受く。敢えて毀傷せざるは、孝の始めなり」という言葉が想起されよう。また、キリスト教的伝統の中でなら、「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです」という言葉(『コリントの信徒への手紙 1』3章16−17節。新共同訳による)が挙げられよう。


 キリスト教的伝統の言葉をあえて挙げたのは理由なしとしない。というのも、臓器移植推進派の中には、例えば聖書の中の、イエス・キリストに帰せられる「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」という言葉(『ヨハネによる福音書』15章13節)を、臓器移植(特に脳死臓器移植)の肯定の根拠に使う人々もあるだろうと思われるからである。これについては、そもそも人間の材料化などということは、聖書中の諸文書が書かれた当時には夢想だにされていなかったことであり、『ヨハネ伝』15章の言葉を引き合いに出すのは明らかに断章取義だと言わざるをえないと言うことができよう。そして、聖書全体に照らして、人間の材料化という事態が肯定されてよいかどうかと考えるなら、既に挙げた『コリント前書』3章の言葉などから見て、肯定されるとはまず思われない。


 本当にキリスト教的立場から臓器移植を推進している人々に対しては、以上のように反論することができよう。しかし、少なくともヨーロッパでは、現代では多くの人々はキリスト教とは無縁な生活を送っていると考えてよく、またそう考えるべきである。ヨーロッパがキリスト教文化圏であるというのはどういう意味かと言えば、ヨーロッパ人が人生で行き詰まった際に、自らの拠り所を求めるために立ち返る場所として、キリスト教(或いはキリスト教文化)が身近に存在する、今やそのような意味でヨーロッパはキリスト教文化圏であるにすぎない。そのような人々に対しては、むしろ人間の材料化という事態そのものに向き合わせて自ら考えさせるより他に手立てはないのではないだろうか。


 最後に、以上から明らかなように、私は臓器摘出は原則として犯罪と捉えるべきだと考えるが、こう書くと、お前は医療の進歩を否定するのかという反論があるかもしれない。もちろん、私は医療の進歩を否定する者ではない。単に、臓器移植という形の医療−−人間の材料化を促進するような医療−−の発展には否定的だ、というまでのことである。


 この関連で興味深い事実がある。白血病対策で骨髄移植が行なわれることがあるのは、私の理解が間違っていなければ、骨髄の中に含まれている造血細胞の移植を狙ってのことなのだろう。ただ、つねづね思うが、骨髄提供を呼びかける訴えにおいては、骨髄を提供した人がその後どのような健康リスクを抱えるかという点の説明が顕著に不足している。本当に、骨髄を提供した人は誰一人として、自らの健康に何の異常も覚えないのだろうか。こういう疑問がある。


 ところが、造血細胞の供給源としてもう1つ、臍帯血というものがあるということを最近知った。これは、赤ん坊が生まれた時の臍の緒に含まれる血のことで、この血の中にも造血細胞が多く含まれているのだという。しかも、臍の緒は通常余計なものとして処分されることが多い。であるから、臍帯血の利用は従来の廃物を利用することであり、かつその利用は、それを提供する人体(つまり、母子の人体)に対して何らの悪影響をも及ぼさない(と思う−−私の誤解でなければ)。骨髄移植と臍帯血の利用と、どちらがより良い医療手段かと言えば、答えは明らかに後者だろう。このような可能性をこそ医療は追求するべきなのではあるまいか。同様に、腎臓移植の問題でも、追求されるべきは、移植のための腎臓の供給を増やすことではなく、そもそも人工透析を受ける必要のある状態の人の数を減らす、そのための医療手段なのである(仮にそれが、透析患者の減少をもたらし、その結果、医者の収入減をもたらすとしても)。