臓器移植法案、衆院で可決――拙速な採決を断然批判する


 既に数日前の出来事だが、本ブログでも何度か取り上げた重大問題ゆえ、一言だけ書いておきたい。今回、大変残念なことに(と言っておきたい)、脳死臓器移植を大いに促進しようといういわゆるA案、すなわち「脳死を人の死とする」法案が衆議院で可決された。この採決をめぐって多くの衆議院議員が「今国会で参院でも採決するように」との希望を述べているが、全くとんでもない。ふざけるなと言わざるをえない。


 衆議院議員たちに問うが、いったいお前たちはこの問題をめぐって何時間審議を行なったのか。また、様々な立場の専門家を何人呼んで、その見解をどう比較考量したのか。また、その議論をお前たち自身はいったいきちんと理解したのか。そして、最大の疑問だが、そもそも誰がお前たちに、人間の死についての定義ないしはそれに類することを行なって良いなどという委託を行なったのか。この最後の点について言えば、少なくとも私はそのようなことを国会議員に委ねた覚えは全くない。多くの国民もまた私と同じ思いだろうと思う。


 今の国会(特に衆議院)が、解散を目前にして、議員たちが浮足立った状況にあることは、誰の目にも明らかである。そんな状態で、地元回りもしなければならず多くの人に会って話をしなければならない政治家に、いったいどれほど考える時間があったというのか(そもそも今の政治家のうちのどれほどが考える頭を持っているかという、より深刻な疑問を別にしても)。最も控え目に言っても、今回の採決は拙速との批判を免れない。それをあたかも国会の良識ある決断であるかのごとく、参院に対して早期の採決を促すなどとは、天を冒涜する所業だと言わざるをえない。


 なぜこれほどまでに怒りを覚えるかを言っておかねばならないだろう。本ブログでは既に以前、この記事この記事脳死・臓器移植の問題に触れているが、そこでも書いたように、要するに臓器移植というのは、人間の材料化を認めるということである。言うまでもなく、人間は材料ではない。人間は全体であって、人間の尊厳を守るとは、その人間の全体性を守るということと同じである。これに対して、臓器移植という治療法は、人間を部分の集まりとみなし、その部分を置き換え可能とすることであり、それはとりもなおさず、人間を材料として使ってよいとみなすことである。本当に、人間を材料扱いして良いのだろうか。私には極めて疑問である。人間の材料化と、人間の尊厳や人権といったこととは、どう考えても相容れないとしか私には思えない。