朝日新聞根本編集委員の見識を疑う

 9月5日づけ「政態拝見」の中で、著者の根本編集委員が次のように書いているのを見て、我が目を疑った。


(以下引用)
 著書『美しい国へ』では戦中の特攻隊に触れて、こう書く。
 「自分のいのちは大切なものである。しかし、ときにはそれをなげうっても守るべき価値が存在するのだ、ということを考えたことがあるだろうか」
 安倍氏の要求は格段に重く、大きく、そして気高い。
(引用終わり)


 何が「気高い」だろうか。冗談ではない。市井の一庶民が圧制に対して「命をなげうっても守るべき価値が存在する」と叫ぶのなら話は別である。しかしここでは、「命をなげうっても」という御託を並べているのは、一国の宰相の座を狙おうという政治家であり、さらに言えば安倍氏は、代々政治家の家系であり、市井の一庶民の立場など代々全く無縁な政治家である。


 戦争責任が日本ではいまだ問われていないと巷間言われるが、その心は、国民を戦争に追いやり、軍人を戦地に追いやり、その多くを異国の地で餓死させた、その責任者である政治家たちが十分に裁かれていないという意味なのではないか。国体のため天皇のためと言って庶民に命を投げ打たせた政治家の責任こそが問われるべきなのである。であってみれば、政治家が「命をなげうっても守るべき価値」などと御託を並べることに対しては、鋭い批判こそが向けられるべきなのである。根本編集委員はそんなこともわからないのか。


 根本氏は或いは「気高い」という表現を反語的に使ったと弁明するだろうか。もちろん、それは言い逃れに過ぎない。なぜなら、文章の最後の文で氏は「私たちはそれほど気高くなれないし、なる必要もない」と言っており、「それほど」という言葉を添えることで、「気高い」という表現を肯定的な表現として提示しているからである。


 政治家をまともに批判できないのなら、新聞人などやめてしまうがよかろう。