「政治とカネの本当の話」の誤り――なぜ企業献金は全面禁止でなければならないか


 田中良紹氏の政治評論は私も比較的よく目にしており、その中には参考になる考えも時々見られる。ただ、このほど「The JOURNAL」というWebサイト上に載った「政治とカネの本当の話(1)」という記事は、どうにもいただけない。この関連で、本ブログで私は企業献金は全面禁止とするのが望ましいと述べており(例えばこちらで)、そこでこの際、田中氏の記事を批判する形でそのあたりのことをもう少し詳しく述べてみるのもよいのではないかと思った次第である。



 まず、田中氏は次のように言っている。

企業献金は「悪」だと言う。なぜなら企業は「見返り」を求めるはずで、政治が企業の利益に左右され、公共の利益を損ねるからだと言う。

正確に誰がこんなことを言っているか、私は不案内にして知らないが、しかしともあれ、企業献金が悪だという議論が、「企業の利益」だの「公共の利益」だのといった経済的次元の中でのみ考えた場合の議論だと、どうして言ってよいだろうか。なぜそこに別の次元、より具体的には社会的正義とか公正といった次元が入ってこないのか。否、そういう次元が入るからこそ、企業献金が悪だという議論が成り立つのである。


 この点を具体的に考えるには、田中氏の次の言葉をまず引用しておくのが幸便である。

仮に政治家がA社から献金を受け、A社の要求に応えたとしても、それがA社の利益にとどまらず、広く公共の利益になることであったなら、それでも企業献金は「悪」なのか。

 ここで田中氏は、A社の同業者すなわちライバル企業の存在を全く無視する奇妙な議論を行なっている。企業献金の容認は、特定の企業の利益を増進してその他の企業の可能的利益を損ない、つまり公正さを損なう。損なわれるのは単に経済的利益だけではないのである。



 田中氏の文章の次の箇所については、

 「利益誘導政治はけしからん」と言う人がいる。これも民主主義を否定する理屈である。民主主義政治で政治家がやる事は自分を応援してくれる人たちの主張を実現する事である。言い換えれば支持者に「利益」を誘導してやる事である。それを否定してしまったら民主主義政治は成り立たない。企業の利益を代表する政治家、労働者の利益を代表する政治家、女性の利益を代表する政治家、農家の利益を代表する政治家、それらの政治家がみな支持者のために働くところに民主主義がある。

確かに、政治家が何らかの団体の代表として、その団体の主張の実現のために議員に選ばれるということは、現実にもよくあるわけであり、それ自体を否定する筋合いの話ではない。ただ、その後で田中氏が「企業の利益を代表する政治家、労働者の利益を代表する政治家、女性の利益を代表する政治家、農家の利益を代表する政治家」と列挙する際、氏は知ってか知らずか、ジャンルの混同をしていると言わざるをえない。


 まず、「女性の利益」という言い方は少々ややこしいので、ここでは立ち入らないことにするが、「農家の利益」というのは要するに農業という産業の利益と言い換えることができるたぐいの話だろう。特定の個別農家の利益という話ではないはずである。ところが、企業献金というのはあくまで特定企業からの献金ということになる。


 「労働者の利益」というのは、これに対置するものとしては「経営者の利益」とでもいうものがあるだろうか。ただ、これについては、雇われる側である労働者が個々人としては立場が(圧倒的に)弱いため、団結して自らの利益を主張することが認められるようになったという歴史的経緯がある。したがって、「労働者の利益」を代表する政治家が容認されるのだからその対極たる「経営者の利益」(=企業の利益?)を代表する政治家も容認される、というような単純な話ではないと私は思う。


 つまり、ここで言う「ジャンルの混同」とは、農家とは個別の農家のことではなく農業という産業のことであり、労働者とは個別の労働者のことではなく労働者階層(或いは階級)のことであるのに対して、企業献金における企業とはどこまでも個別の企業のことであり、次元が異なっている、ということである。


 というふうに考えてくると、ならば個別企業単位でなく産業単位でなら企業献金は認められるか、つまり、同業者団体からの献金ならば良いのか、という問いが念頭に浮かぶ。百歩譲って、認めてもよいかもしれないと思う。もちろんその場合、どの同業者団体が当該産業を代表しているかということが問題になりうるようには思われるが。


 ただ、実際に問題なのは、そのような形でのみ「企業献金」を認めた場合に、果たして個々の企業が献金を行なう気になるかどうか、という点である。実際には、そのような場合に個々の企業が進んで献金するとはまず考えにくい。なぜなら、仮に当該産業に対する振興策が打たれたとしても、それに与るのが同業者のうちのどの企業かは、少しも定かでないからである。これに対して、現実には企業献金は、自社の(であって、自産業の、ではない)利益確保を少しでも確実なものにしたいというところから行なわれてきたと言ってよいのではあるまいか。



 田中氏の次の文章

 企業の利益を代表する政治家が「企業献金」を受けて、企業の利益を図るのは別に問題ではない。問題となるのは、その企業の利益と公共の利益が相反し、にも拘らず公共の利益にならない事を権力を持つ政治家がやった場合である。

に対しては、言うまでもなく、既に上で書いたのと同じ批判が当てはまるので、それを繰り返す必要はあるまい。問題はその次の文章で、田中氏はそこで

ところが日本では企業献金を「悪」だとして禁止している。そのため何が起きているか。企業が政治団体を作ればその献金は認められるという、「まやかし」と言うしかない制度が作られた。

と言っている。ここで、企業献金が悪だという考えがまやかしなのではない。まやかしなのは、こういう団体献金を認める制度それ自体であり、要するに、企業献金を全面的に禁止しないことこそが、このようなまやかしを生み出しているのである。



 最後に、田中氏の次の文章について。

政治献金は透明性が大事であって、裏金は問題にすべきだが、表に出ている政治資金で捜査機関が政治の世界に介入する事は民主主義国では許されない。

 「表に出ている政治資金」に対して、なぜそもそも「捜査機関が政治の世界に介入する事」が起こったかと言えば、政治資金が法に則って公開された場合に、それをまずしかるべき機関がチェックすることが行なわれていなかったからではないだろうか。捜査機関が介入することは許されない、ということを強調する前に、そもそもなぜ、しかるべき機関(総務省あたりだろうか)がチェックして、おかしいところについては是正命令とでもいったものを出す(もちろん、そういう命令を出せるという法的根拠がなければならないわけだが)、というようなことが行なわれなかったのか。こちらこそがまず問題にされるべきだと私は思う。



 田中氏の主張の中には、政治家が政治資金その他の問題で言わばいつも官僚制にしっぽをつかまえられているような状態にあるのはよろしくないといったような、うなずける点も少なくない。しかし、であればこそ、もっと正論を言うべきではなかろうか。既に以前の記事で書いたように、結果として利潤を得ることを目指して行動する組織体である企業が、政治家に対して献金することは、その献金が利潤獲得に貢献したとしてもしなかったとしても、どちらに転んでも筋が通らない。そうである以上、これは全面禁止にすべきなのである。