民主主義について――或る批判についての感想


 本ブログのこれまでの記事を概観すれば明らかだろうが、もともと本ブログは日々起こっている社会現象(特に政治)への感想や批判を書くことを主たる内容としている。ここで「民主主義について」などと抜かしているのは、そのような日頃の批判を書く際に私自身の中で機能している考えがいったいどういうものなのかを、自分のために明確化するためであって、学問のための学問といった立場から民主主義について論じているのではない。よって、学問史を踏まえていないといった批判は、極端に言えば私にとってはどうでも良いことである。ならばお前の議論は「単なる呟きとか床屋政談」のレベルでしかないと言うのであれば、それで結構。書斎にこもって考えるだけで、実際の政治を考える際のつっかえ棒ないしはつっぱり棒にならないような思想・思索は、何の役にも立ちはしないし、そのような役立たずの思想・思索を事とする人々から批判されても、私には痛くも痒くもない。


 この批判が言いすぎだと思うのであれば、次の事実をよく考えるべきだろう。すなわち、私が民主主義の根本は多数決原理などではないと言っているのは、例えば、今の安倍政権が強行採決に次ぐ強行採決を繰り返してきたことに対する実際的批判に根ざしているのだが、そうでなく民主主義の根本は多数決原理だと言うのであれば、今の安倍政権のやっていることは民主主義的に見て何ら問題ないと言わざるをえないと思われる。論理的に考えてそれ以外のことがありうるのかどうか。私に向かって答えるのでなく、今の政治状況に向かって、また自分自身に向かって答えるべき、これは問題だろう。


 言うまでもなく、当方とて別に独善をよしとしているわけではなく、(史実理解に関する)実証的批判とか、(考察の整合性に関する)論理的批判に対しては傾聴しなければならないと思っているが、薀蓄をひけらかすような、またただ学問(の名)を振りかざすだけのような批判はここでは考慮の対象外とすることを予め断っておきたい。以下、こちらでの批判の順序に即して感想を述べていくこととする。



 まず、なるほど、主権概念を個々人一人一人に言わば分割して帰属させるという考え方は、「従来の主権論の伝統」にはないものなのかもしれない。参照した或る事典の記述でも、ルソーが唱道しフランス革命によって実現されたのは、「人民という集合的人格」を主体とする人民主権なのだとか。しかし、もし主権論なるものがそのような段階に今なおとどまっているのなら(私は不案内にして知らないが)、主権論について思索する研究者・思想家たちはそれこそ知的怠慢のそしりを免れないのではあるまいか。主権(或いは、後の議論を踏まえて言うなら、統治権)という現実の現実性またその強大さを思うなら、人民という、「集合的人格」と言えば聞こえは良いが現実にはそれ自体としては存在しないものすなわち擬制に、主権を帰して事足れりで済むはずはないからである。


 フランス革命によって達成されたことを民主主義理念との関連で解釈(或いは、こう言うのがお望みなら、再解釈)するなら、それによって達成されたのは主権と統治権の分離だと言ってよいのではないか。こう言うと、そんな議論は英語に訳せないと言われるかもしれないが、それは、主権をsovereigntyと言い表す英語(及びヨーロッパ語)の問題であり、民主主義理念の問題ではないと言うべきである。言うまでもなく、sovereignty(主権を意味し、また統治権をも意味する)は主権者sovereignから派生する単語であり、そして英語(及びヨーロッパ語)では主権者sovereignは単数でしか考えられないから(それが歴史的事情によっているというのは、無論そのとおりなのだが)、そんな議論は「訳せない」となるのだろうが、しかしそうだとすると、主権は「人民という集合的人格」(という、それ自体としては存在しないもの)には属するが、実際に存在する国民一人一人には属さないことになる。しかし、現実に人民主権が何に由来しているかと言えば、民主主義国の制度運用を見れば明らかなように、それは有権者たる国民の意思表示に由来している、つまり国民一人一人に由来しているのである。ここには明らかに矛盾がある。したがって、訳せない方こそが問題をはらんでいると言わざるをえない。


 繰り返すと、フランス革命によって達成されたのは、主権と統治権の分離であり、そしてその主権の国民一人一人への帰属であると言ってよいのではないかと思われる。この関連で、私の議論は「主権を各人の自己決定権に還元し」ているとの批判があるが、主権を自己決定権に還元して少しも問題ないと思われる。ここで問題になっている「自己決定権」とは、他者によって妨げられることなしに自分の意志で決定を行なうことができる権利のことであり、そして実際にも、かつて君主制の時代には、そのような権利を十全な意味で持っていたのは君主だけだったが、時代は変わり、今や国民一人一人が様々な自己決定権を有するに至っているのだから。


 付け加えると、ここで言う主権は、当然ながら統治権の源泉となっているわけであり、統治権を担う者は主権による裏づけを得ることによって、また主権による裏づけを得た限りにおいて、統治権を行使することができるのである。ついでに言えば、例えばこのような文脈の中に、情報公開制度の民主主義的必要性を位置づけることができよう。


 次に、「一定領域内における統一的な統治権としての主権の観念」はどのように説明したらよいか。現実の歴史に即して説明するなら、そのような統治権は、もともと君主が持っていたものを人民が奪取した結果、民主制国家においても統一的な統治権が行使されてきたと考えるよりほかにないだろう。ただ、そのような統一的な統治権(これをここでは主権と呼ばないことは前述のとおり)が存在することがいかなる理由で許容されて良いかと問うなら、その答えは治安上の理由に求められるべきではないかと思われる。そしてその治安という問題は、人権の実際的保障という問題とかかわっているように思われる。このあたりは、理論家なら、さらにどうしてかと考えたくなるところだろうが、現実を出発点とする私としては、このあたりはとりあえず鋤き残しにしておくことにする。


 次に、「国家の対外的な独立を体現する意味での主権の観念」はどのように説明したらよいか。歴史的な事情は、統一的な統治権に関してすぐ上で述べたのと同じことだが、ではなぜ国家の対外的な独立を統治権行使者が体現することが許されるかと言えば、人権の実際的保障を担う主体として統治権行使者が存在することを主権者が認めたのであれば、その統治権行使者が他の統治権行使者(=国家のことだが、厳密に言うとこうなるだろう)と平等に扱われるべきこと――対外的な独立とは要するに、「平等に扱ってもらうこと」だろう――は、国内の民主主義とのアナロジーによって言えるのではあるまいか。実際、近代国際法における主権平等の考え方は、国内の民主主義とのアナロジーによって支えられた考え方であるように思われる。


 最も重要な論点に関しては以上のコメントで足りていると思うが、なお付言すると、「民主主義は平等観念を内包するという主張は誤りではないが、ふつうその平等は政治的平等に限られるのであって、その点を区別せずに平等一般の実現という理念を民主主義に背負わせるところには論理の飛躍が見られる」という指摘については、お題目としてはそのとおりかもしれない。しかし実際的には、最低限の経済的平等化(より正確には、経済的不平等の最低限の是正)なしには、政治的平等など絵に描いた餅である。生存権の保障は民主主義と内的関連を有すると考えるべきではないかと思われる。


 さらに、人権思想一般も、民主主義と内的関連を有すると考えるべきではないだろうか。その点は、主権と人権を結びつけて考える私の議論でははっきり出ているが、これと異なる考え方をする場合には、そのあたりはどのように論じられているのだろうか。不勉強にして知らないが、いずれにせよ、人権思想が民主主義という思想を時期を同じくして登場したことは、決して偶然でないと思われる。


 次に、「民主主義は自らの擬制的性格を覆い隠すことによって機能するという洞察は割合鋭いと思うのだけれど、それは実際もの凄く恐ろしいことでも有り得るのではないのか、という有り得べき疑問についての配慮が見受けられない」との指摘については、既に書いたとおり、「民主主義に基づいて制定された法律が実際に運用されることは、民主主義の擬制的性格を(消失させる、とまで言わないとしても)覆い隠す効果を有する」という箇所で私なりの配慮はしてある。さらに付け加えるなら、私の議論は、歴史の大半の期間では民主主義は行なわれてこなかったという現実を踏まえたものだと言えるはずである。そして、批判者は歴史を知らないかもしれないが、民主主義だけが正義を担ってきたわけでは必ずしもない。既にハンムラピ法典の昔以来、為政者は社会的正義の実現に配慮してきたのである。もちろん、だからといって私は、君主制を容認するわけでは全くないのだが。


 最後にもう一言、これは純然たる批判になるが記しておくことにする。すなわち、私を批判してきた方は、ご自身の立場を次のように規定しておられる。

議論を尽くした上でなお合意が得られない場合に、最終的手段として対等なメンバー間における多数決によって決定を下すことを、(自己決定権を実現不可能な少数者を含む)当該政治的共同体における全成員に対して正当化可能であるという信念が、価値理念としての民主主義の中核なのである。


それゆえ、議論を尽くすかどうか、多数決をどの段階で実施するかは、事の本質ではない。

 この文章の前半では「議論を尽くした上でなお合意が得られない場合に、最終的手段として」とあるが、その最後では「議論を尽くすかどうか、多数決をどの段階で実施するかは、事の本質ではない」とある。本質でないということはつまり枝葉であり、民主主義とは何かを考える上では看過してよいことだということになる(つまり、「議論を尽くした上でなお合意が得られない場合に、最終的手段として」という部分は、体裁のため単に言ってみただけ、ということになる)。とすると、このような考え方によればやはり、国会で、実質のある審議が行なわれないままどんどん強行採決が行なわれても、そこには何ら問題はないということになる、と断ぜざるをえない。これで本当に良いのか。極めて甚だしく疑問である。


 繰り返すが、これは私の問題ではない。民主主義の本質が多数決にあるとする思想の持ち主が、自ら考えて解決するべき問題である。


追記(7月31日)
 以上の記述を数日前に書いたところ、下に当の批判者からのコメントが入ってひとしきりやりとりがあった(一部、最後に先方から人を馬鹿にしたコメントがあったので、それを削除し、それに対して私が応答したコメントも削除した)。これを見て、やりとりについての感想を書いておく。


 一言で言えば、現実に対してものを言わない学者(及び学者見習い・・・批判者自身はむしろ後者の方だろう)は全く役に立たない存在だということを改めて思い知った、といったところである。例えば、そもそも批判者が行なった批判は、「主権論の伝統」に名を借りて当方の主張を嘲笑するものだったが、それは別にかまわない。しかし、批判をするのなら、今の世の中で諸処において見られる「主権者」という言い方をも批判し、国民一人一人を主権者と称するような考えを批判するのでなければ筋が通らない。現実にそういうことが社会で語られている(そして私の判断では、そういう言説には根拠がないわけではない)のを無視して、単に学問の名をふりかざしたところで、現実に対しては何の影響も持たないのである。


 同様の問題は、この批判者が「価値理念としての民主主義は必ずしも議会審議を要請しない」と言っているところにもよく現れている。先の国会で与党が強行採決を連発したのに対して、さまざまな政治家・学者が、与党の暴挙は議会制民主主義を踏みにじるものだと言ったが、この批判者によれば、議会の審議は民主主義には属さないというのである。これほどに現実を無視して、学問の名をふりかざしてだろうか(しかし、審議なり議論なりをしかるべく位置づけない民主主義論などというものが、まともな学問的議論として、果たしてあるのだろうか)、勝手な民主主義理解を提示している。ここまで来ると、この批判者のような主張は現実に対して何の(好)影響をもたらさないどころか、むしろ悪影響をもたらすと言ってよいのではないだろうか。知的根腐れを起こしていると評すべきかもしれない。


 無益な学問的論議をする暇は私にはない。だが、現実の社会に悪影響をもたらすような議論は、それがどのようなものであれ、これを私は批判し続けなければならないと思っていることをここで記しておきたい。