どう考えてもおかしい判決をどう論破するか――靖国合祀裁判の大阪地裁判決を批判する


 太平洋戦争の戦没者らの遺族9人が、意思に反して靖国神社に親族を祭られ続け、故人をしのぶ権利を侵害されているとして、神社が管理する「祭神簿(さいじんぼ)」などから氏名を消すよう求めた訴訟で、このほど大阪地裁の判決が出された。末尾に記事を引用しておくが、一読して、どう考えてもおかしい判決だと言わざるをえない。しかし、このおかしい判決がまかり通るのが今の日本の司法であるらしく、そして司法が司法であるからには、このようなおかしな判決を通用させる屁理屈があるに違いない。したがって問題は、この屁理屈をどうやって論破するか、である。そこで少し考えてみることにした。


 ここでおかしさを感じさせる源泉は何か。それは一にも二にも、遺族の感情が無視されているという点である。地裁判決は護国神社への自衛隊員合祀をめぐる最高裁判決を引き合いに出して自らの論理を組み立てている。この最高裁判決は、遺族の権利を認めるべきとする少数意見もついた、決して一筋縄で行かない内容の判決だったのだが、今ここでそれを蒸し返すつもりはない。


 必要なのは、この「遺族の感情が無視されている」というところを、論理のレベルにまで引き上げることによって、地裁判決を論破する論理を構成することである。これは何も、屁理屈に対して別の屁理屈を対抗させようという話ではない。そもそも判決というものにおいては、或る事案があった場合に、それを検討した裁判官の頭の中で、裁判官自身の常識的・人間的・知的・情的等々のあらゆる判断基準に鑑みて、ふつうまず結論が当然のものとして浮かび上がるのではないかと思われる(そのような話を法学の授業で教師から聞いたことがある)。そしてその当然の結論を、適切な法的論拠に基づいて論理的に構成したものが、いわゆる判決文なのである。


 つまり、その当然の結論こそが「遺族の感情は無視されるべきでない」であり、この判決はその逆を行っている。だからこそ、この地裁判決は批判に値するのである。


 といっても、私は法律の専門家ではないので、以下の議論を逐一法的根拠に帰することができるわけではない。そこは、法律の専門家の出番だろうと思う。であるので、以下述べることはあくまでも、こういう論理構成が考えられるのではないか、という例示を超えるものではないことをお断りしなければならない。



 社会には確かに法があり、それを支えるものとして道徳があるが、それらと並んで(そしてそれらと必ずしも明確に区別できないものとして)慣習というものがある。慣習が慣習である所以は、その慣習を守らない者は、道徳を守らない者のように、社会から批判を受ける、という点に存する。しかも、慣習が明文化されていればそれはもはや法と選ぶところがないわけであり、そうでないからこそ慣習が慣習として存在する。と考えると、慣習は明文化されていない法のようなものだと言ってよいかもしれない。


 慣習と法・道徳の関係に関する理屈(理論的省察?)はともかくとして、死者を葬るのは、その実施が遺族に委ねられているところの慣習である。もちろん、死体の処理を済ませるところまでは法律の定めがあるはずだが、ここで「葬る」というのはより広い意味で言っているのであって、葬式を営み、挨拶を済ませるといったことまでをも含んでいる。この慣習はほとんど義務だと言ってよいだろう。そしてその最後に来るのが、墓に故人を弔うということである。つまり、どういう形で墓に弔うかというところまでが、遺族に課せられた慣習的義務だと言ってよい。


 ところが、義務というものは、それの裏返しとして権利をも伴っているはずである。つまり、故人を墓に弔う義務(その場合、弔い方に関して故人の遺志があったなら、その遺志を尊重する慣習的義務をも遺族は負っていることになろう)を負っている遺族は、どのように弔うかについての権利をも持っているはずである。これは、今回の地裁判決が引き合いに出している「敬愛追慕の情に基づく遺族の人格権」でもなければ「名誉やプライバシーの侵害」にかかわる人格権でもない。あくまでも、故人を弔うという慣習的義務に伴う権利であり、そのような慣習的義務が実際にこの社会に存在する以上、それに伴う権利もまた、この社会には当然存在するのである。しかもこの慣習は、今日本社会に存在する慣習の中でも最も強固な慣習の一つだと言ってよいだろうから、この慣習にかかわる義務・権利もまた、法律の明文規定こそないものの、法律に明記されている義務・権利に劣らず強固なものだと言ってよい。


 かくて、今回の件で言えば、靖国神社側の合祀によって侵害されたのは、遺族が有するこの慣習的権利だと考えざるをえない。そして、そのような権利は実際強固なものとして存在するのだから、靖国神社側は遺族の権利を侵害していると言わざるをえない。司法が権利の侵害を許してよいわけはなく、したがって、今回の大阪地裁判決は破棄されるのが至当である。



 今回の不当判決を報じた朝日新聞の記事は以下のとおり。リンクはこちら。しかしそれにしても、なぜ朝日新聞のこの記事は、原告団の判決直後の言い分を一言も載せていないのだろうか(写真を載せたのみで)。全くバランスを失していると言わざるをえない。

靖国戦没者合祀簿 氏名の削除要求退ける判決
2009年2月26日12時9分


写真棄却され横断幕をかかげる原告の支援者ら=26日午前11時11分、大阪地裁前、山本裕之撮影


 太平洋戦争の戦没者らの遺族9人が、意思に反して靖国神社に親族を祭られ続け、故人をしのぶ権利を侵害されているとして、神社が管理する「祭神簿(さいじんぼ)」などから氏名を消すよう求めた訴訟で、大阪地裁は26日、遺族の請求をすべて棄却する判決を言い渡した。村岡寛裁判長は「遺族が主張する感情は不快や嫌悪の感情としかいえず、法的に保護するべき利益とは言えない」と述べた。


 原告は近畿、中四国、北陸に住む64〜82歳の男女。父親や兄ら親族11人が40〜45年、ビルマミャンマー)やフィリピンなどで戦死・病死して合祀(ごうし)された。「親族の死を殉国精神の高揚に利用されるのは嫌だ」として、国が持つ氏名や死亡年月日などの情報に基づく祭神名票(さいじんめいひょう)、それをもとにした祭神簿、儀式用の霊璽簿(れいじぼ)からの氏名抹消と遺族1人につき慰謝料100万円の支払いを求めていた。


 判決はまず、自衛官合祀拒否訴訟の最高裁判決(88年)が「強制や不利益の付与を伴わない限り、他者の宗教的行為で自己の精神生活の静謐(せいひつ)を害されたとする感情には、損害賠償や差し止めの請求を導く法的な利益が認められない」と述べた部分を引用した。そのうえで、遺族側の「靖国神社が戦没した家族のイメージを勝手に作り上げたことで敬愛追慕の情に基づく遺族の人格権が侵害された」とする主張を検討。「故人に対して縁のある他者が抱くイメージも多々存在し、故人に対する遺族のイメージのみを法的に保護すべきだとは言えない」と指摘した。さらに「合祀に強制や不利益の付与はなく、遺族以外の第三者は合祀の事実を知り得ないのだから名誉やプライバシーの侵害も認められない」と判断した。


 靖国神社と国の一体性については「合祀は靖国神社が最終的に決定しており、国の行為に事実上の強制とみられる何らかの影響力があったとは言えない」と判断した。


 今回の裁判は合祀の拒否をめぐる訴訟で初めて国だけでなく神社を被告とし、遺族が反対している場合も「英霊」として祭り続けることをめぐる初の司法判断となった。遺族らは、過去の判例を踏まえて、裁判所に合祀という宗教行為そのものの是非を問うのは難しいと考え、合祀取り消しでなく、合祀資料からの氏名抹消を求めていた。同様の訴訟は東京、那覇両地裁でも起こされている。


 靖国神社の小方孝次総務部長は判決後、「妥当な判決と考えている。この機会に靖国神社に対する適正な認識が広く醸成されることを念願しつつ、今後とも御祭神への御奉仕に専念して参る所存である」との談話を出した。


 厚生労働省社会・援護局業務課の平林茂人課長は判決後、「国側のこれまでの主張が認められたものと考えている」とするコメントを出した。