被害者参加の刑事裁判の誤り


 このような表題を書くといろいろな誤解を招くかもしれない。批判はもちろん受けるつもりだが、批判者には、批判する前にまずは一度当方の言い分を最後まで読むことを予めお願いしておきたい。


 今回の記事を書くつもりになったのは、被害者参加裁判の様子を報じた記事を目にしたからである。まず朝日新聞のその2つの記事を引用するところから始めることにする。

「刑重くなったら私を恨みますか」被害者参加し初の裁判
2009年1月23日22時36分
 犯罪で被害にあった本人や遺族が法廷で被告に直接質問したり、量刑に関する意見を述べたりすることができる「被害者参加」が認められた刑事裁判が23日、東京地裁で2件あった。昨年12月に制度が始まって以来、実際に公判が開かれたのは初めてとみられる。


 23日に公判が開かれたのは(1)21歳の男性被告2人が昨年10月、東京都新宿区で会社員男性(52)に因縁をつけ、殴って肋骨(ろっこつ)を折ったとして恐喝未遂と傷害の罪に問われた事件(2)男性運転手(66)が昨年8月、東京都千代田区でトラックを運転中、オートバイに乗った男性(当時34)をはねて死亡させたとして自動車運転過失致死罪に問われた事件。


 (1)の事件の公判には被害者本人が参加し、被告2人に直接質問。「私のせいで刑が重くなった時、恨みますか」などとただした。


 (2)の事件の公判では妻(34)が量刑に関する意見を述べた。執行猶予にせずに実刑とするよう裁判所に求め、「この思いを反映して頂けることを望みます」と訴えた。

被告の目前「実刑を」 被害者参加裁判で交通事故の遺族
2009年1月24日3時0分
 犯罪の被害者本人や遺族が同じ法廷の中で被告と向き合い、じかに言葉を交わす。日本の刑事裁判ではかつてない光景が23日、東京地裁の二つの法廷で展開された。ひとつは恐喝未遂・傷害事件。もうひとつは交通死亡事故をめぐる事件だ。交通死亡事故の法廷の様子は――。


 自動車運転過失致死罪に問われている男性被告(66)の初公判。昨年8月、東京都内でトラックで右折するとき、対向車線のオートバイと衝突して男性(当時34)を死なせたとして起訴された。


 被害者参加の裁判では、被害者・遺族は検察官側に座る。検察官の横には、男性の兄(35)と付き添いの弁護士が並び、男性の妻(34)がその後列に座った。


 被告が罪状認否で起訴事実を認めた後、検察側が冒頭陳述と証拠の説明をした。被告が、事故後に前触れなく遺族のもとを訪れたとき、焼香を断られると、遺族に向かって「2時間もかけて来たのに」と口にしたことも明かされた。


 被害者・遺族には被告人質問が認められる。机に両ひじをついて顔を伏せ、怒りをこらえていた様子の兄が、検察官との短い打ち合わせの後、質問に立った。


 兄「なぜ事前連絡をしなかったのでしょうか」


 被告「断られちゃうと思いまして」


 兄「現場で手を合わせたことはありますか」


 被告「毎日、車で通っております。赤信号だと止まりますから必ず気持ちでやっております」


 兄は、被告の反省や謝罪の姿勢が本物かをただした。


 兄「逆に青信号だったらしないんですか」


 被告「頭下げる程度で」


 兄「あなたが考える誠意とは何なのでしょうか」


 被告「んー、ただお線香あげさせて頂いて。謝るしかないです」


 検察側は論告で「遺族が受けた精神的衝撃は癒やされることがない」と訴え、禁固1年6カ月を求刑した。その後、妻が立ち上がり、被害者・遺族による量刑についての意見を述べ始めた。


 「前方不注意などという簡単な言葉で終わらせたくない。殺人だと思っています」


 涙を流しながら、妻は続けた。「最後のお別れの時、『パパと離れたくないよ』と泣き叫んだ5歳の娘の気持ちがあなたに分かりますか?」


 非難の言葉を連ねた後、妻は、執行猶予にせずに実刑とするよう求めた。裁判長に「裁判に参加することで発言できることは意義のあることだと思いますが、この思いを反映して頂けることを望みます」と訴えた。


 判決は2月20日。公判後、記者会見した兄は「相手が誠意を持っているかは、被害者側が一番分かる。遺族本人が感情や気持ちを言うことで、加害者や裁判官に伝わった」と参加の意義を語った。(河原田慎一)

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 この2つの記事(特に、より詳細な2つ目の記事)を読んでの感想を言う前に、私自身が以前に事故の加害者となった時の経験について触れておきたい。私の場合は車対車で物損事故だったのだが、当方が100%悪いという状況での事故であり、しかも事故直後の当方の対応の仕方が最善ではなかったこともあり、相手を余計に怒らせたのだろう。そういうことがあったので、後ほど警察署に出向いて相手と話した時には、こちらは平謝りの態度をとるほかなく、相手からは、今思い出しても腹が煮えくりかえるような罵倒の限りを言われた。もちろん、こちらが100%悪いのだから、いかなる抗弁も無用なのであり、そのことは重々わかっている。しかし、あのような罵倒を言われてその後に誰が、相手に対して謝罪の念をより強くいだくようになるだろうか、という思いは禁じえなかったことを白状しなければならない。


 ということを言った上で、上の記事への感想を述べることにする。物損事故ではなく人身事故のケースなので、加害者がもたらした加害の程度は、私が上記の物損事故でやった加害の程度よりももちろん遥かに重いことは言うまでもなく、そしてもちろん、被害者側の怒りの程度も当然遥かに重大かつ深刻だろうと思われる。そしてそれは全く当然であり、全く理解できることである。


 しかしながら、そう言った上で感想を述べるなら、裁判の場で加害者と被害者側が直接向き合って、記事にあるようなやりとり(言うまでもなく、加害者の側は――もし加害者が人間としてまともなら――記事にあるように平謝りに謝るほかないだろう)をすることに、何のプラスの意味があるだろうかという思いを私は禁じえないのである。


 他人のブログの引用をして逃げるつもりではないが、私の思いは、例えば或る弁護士のブログのこの記事で記されているものと基本的に同じである。そこから一部(というよりむしろ、そのほとんどだが)を引用しておくと、

検察官と並んで座っている遺族側からの被告人に対する質問は,事故の現場に車を止めて手を合わせているか,それができていないなら反省していないなど,きびしく被告人を詰問するものであった。反省しているかいないかは事故の現場で手を合わせることによってのみで判断されるものではない。その人の宗教観,価値観を押しつけることが刑事裁判ではないはずである。そして,被告人への憎しみを露わにして,実刑が妥当であるとの求刑意見を述べている。事故に至った責任の客観的な事実認定に影響を及ぼしかねないことである。被害者は誰でも厳しい意見をもつのは当たり前である。そのことを改めてこのように刑事手続きで表明させることは,法廷でその憎しみの対立を演出するだけの意味しかない。


刑事裁判は,憲法に守られた適正手続きに保証された厳格な罪刑法定主義によってなされなければならない。法廷でいじめることがその目的ではない。その人の罪を「裁く」ものになってはならないのである。この刑事裁判に被害者を参加させる制度には刑事手続きをゆがめる危険を持っている制度である。被害者が事件によって大きく傷ついていることも確かである。こうした人々に対するカウンセリングなどの制度は保障されるべきである。社会におきた犯罪の被害は,その社会できちんと対応していくシステムがなければならないからだ。今日の初めての被害者参加の刑事裁判は,加害者と被害者のぬぐいきれない不信感と憎悪を増幅させ,刑事法廷を復讐の場面にしてしまっているように感じさせられ,嫌な気持ちにさせられた。

 特に「刑事法廷を復讐の場面にしてしまっている」という点が重要である。


 司法は法治国家の根幹部分を担っていると私は理解している。というのは、次のような意味においてである。すなわち、まず立法府においては、多くのことが多数決によって決められており、そして多数決による決定が必ずしも正しいとは言えないことは、今さら私が言うまでもないだろう。そしてその決定(法律その他)を実施するのが行政府であり、行政府の様々な問題についても、ここで今さら言うには及ぶまい。


 しかし、立法府や行政府が問題を起こした場合に、或いはそれ以外にも、社会において法にかかわる様々な問題が発生した場合に、我々が頼ることになるのは司法府、司法の分野である。そして司法の分野においては、もちろん複数の裁判官がいる場合に多数決という要素が入ってきてはいるが、しかしそれでも、立法府の場合などと比べれば遥かに、理性の支配という要素が前面に出てきていると思われる。そしてもちろん、そうでなければならないのである。なぜなら法治主義それ自体が、突き詰めれば、「理性の支配」主義であるはずであり、そうでなければならないからである。


 つまり、法治主義を究極のところで支えているのは司法の分野であるはずであり、そのような司法の場に、被害者参加制度という形でむき出しの感情を持ち込むのは、どう見てもふさわしいと思えないのである。


 但し、誤解のないように言っておけば、上記弁護士のブログでも触れられていることだが、被害者側の感情の問題に対するケアはもちろん不可欠であり、そのケアのために被害者側が加害者と直接向き合うことが必要なら、そのような場が設けられるべきである。――このような言い方の背後にある私の見方を明示するなら次のようになる。すなわち、上記新聞記事のような事例の場合に、責められて当然の立場にある加害者は、当然ながら、自らの加害行為に対して深甚なる反省をするべきだ、と私は思う。これは人間としてなすべき当然のことであり、仮にその部分をとっ違えている加害者がいたとしたなら、そのような加害者に対しては、反省の情がないなどといった理由で量刑を重くすることは当然あってよい(し、これまでの裁判でもそのような量刑は行なわれてきたのではなかろうか)。


 しかし、被害者側と加害者が向き合う場は裁判の場であるべきではない。裁判の場をそのような場とする唯一のありうべき理由は、被害者側の言い分を量刑に反映させるということだが、今回の記事でも明らかなように、被害者側の言い分は結局、処罰感情という言葉に集約されるようなものでしかない。つまり、結局司法の場に感情を持ち込んでいるのである。私が、被害者参加制度に反対せざるをえない理由がまさにここにある。(なお、言うまでもないが、求刑或いは判決において被害者の処罰感情を考慮する量刑などということが、最近の裁判においてはよく語られるようだが、私は、このようなやり方はもちろん全くおかしいと考えている。)


 書いてみて、どうも堂々めぐりの議論にしかなっていないようだが、ともあれこういうふうに私は思う。


 まとめとして繰り返すなら、加害者の側が自らの加害行為に対して深く反省を抱くようになることが重要なのは無論であり、司法の果たすべき役割の一つがそこにあることを私は否定しない。但しその場合司法の役割は、被害者の処罰感情を満足させるためのものではなく、加害者に対して(広い意味での)矯正的効果(とでも言うのだろうか)を及ぼすものでなければならない。また、被害者側の感情に対するケアももちろん必要であり、そのケアのために必要があれば、被害者側と加害者が直接向き合う場が、裁判の場の外において設けられてよい。


 しかし裁判それ自体は、あくまで理性の支配が貫徹するような仕方で行なわれるべきである。すなわち、当該訴件に関する事実・真相が徹底的に明らかにされるべきであり(というのも、真実・真相の追求こそが理性の営みと呼ぶにふさわしいことだから)、そしてその事実・真相に基づいて、他の同様の事例とも比較して、合理的な量刑が行なわれるべきである。量刑に際して被害者側の処罰感情或いは復讐の感情などといった感情が考慮されるべきではない。そのような感情を司法の場に混ぜ込むことは司法の近代以前への退行を意味すると評さざるをえず、私はそのような退行には全く賛成できない。