羽生の見事な寄せ――第79期棋聖戦五番勝負第5局


 本ブログは将棋の棋士に対しては概して厳しく、とりわけ羽生に対しては特に厳しいことを書いているが、たまには賞賛することもしておきたいと思う。このほど羽生の棋聖位奪還(羽生の場合、どのタイトルでも「奪取」でなく「奪還」と書いておいて間違いない)が決まった、第79期棋聖戦第5局の寄せについてである。棋譜このページから見ることができる。


 「中継室から」で見られる佐藤の感想にある「△8六歩」とは、72手目の△8六歩のことだが、この局面或いはこの1手前の局面を見て、この先42手(計114手)で佐藤が投了するとは誰も思っていなかったのではなかろうか。佐藤のほうは穴熊の堅陣、対する羽生はというと、どう見ても安普請のありがたくない玉形である。しかしここから寄せられたのは佐藤の玉なのだから、驚きである。


 考えてみれば、これ以降の羽生の攻めは格言どおり、セオリーどおりの攻めだと言える。両取り逃げるべからず、銀頭という急所に狙いをつけ、相手方の守りの金をはがし、遠見の角を打ち(もちろん、この角の効果は相手の飛車先を止めることにあり、先の名人戦第3局の△4二角を彷彿とさせる角打ちである)、大駒(馬)は近づけて受け、またもや銀の頭に歩を放ち、先手の佐藤がよけて銀を引いたが最後、この歩が佐藤の玉を詰ませることとなった。


 佐藤の勝ちはなかったのか。そんなことはないと思うのだが、例えば72手目の△8六歩に対して▲3四角と飛車を取る手はなかったか。次に、飛車を打ち込んでからか、或いは打ち込む前か、どちらが良いかはわからないが、いずれにせよ▲6一角成と相手の金と刺し違えるなら、先手は大いに駒得であり、実際にもこれで戦えたのではなかろうか。或いは、▲8六同歩と取る手もあったかもしれない。以下△8七歩、▲同銀、△9五桂となったなら、そこで▲8三角成、△7二金上、▲8四馬としておけば、後手の攻めは一段落したのではあるまいか(以下の手順の一例は△8七桂成、▲8八銀、△7八成桂、▲同金右――これは先手がうますぎるかもしれないが、△8七桂不成、▲8八玉、△7九桂成、▲同金でも、8四に馬がおり、かつ8六に歩がある状況は、実際の進行に比べて先手良し、なのではなかろうか)。とはいえ、73手目を指すのに佐藤は相当の時間を使って考えており、当然ながら素人には及びもつかないところまで考えた上で、着手(▲8三角成)となったのであろう。このあたりの折衝については、後日の解説が待たれるところである。また、遠見の角(88手目)に対してはいったん▲5四歩と中合いをすべきではなかったかなどとも思う。


 先日のNHKの番組「プロフェッショナル」で羽生が第6局に勝った瞬間の映像が、羽生がふだん決して語らないことを良く映し出していた。本当に肩の荷が下りたという具合に深いため息をつき、そこで(ため息との先後がどうだったか、正確には覚えていないが)今にもうなり声をあげそうになったようだった。その後涙が出てきそうになったのを、扇子を忙しくばたばたさせることで紛らわせた(ように見えた)。うなり声もあげず、涙も流さなかったことは、対局相手たる森内への配慮というよりむしろ、棋界の第一人者を自認する羽生のプライドのなせる業だったのではないかと私には思えた。


 この心理的重石が取れたことで、たぶん羽生は、名人戦の時よりもかなり気楽に将棋を指せているはずである。それが今回の棋聖位奪還につながっているのであれば、現在羽生と王位戦を戦っている深浦は大いに警戒が必要だと言わなければなるまい。ひょっとして、羽生は本当に再び全冠独占への道を歩み始めたのかもしれない。


追記
 産経新聞のWebに載っている「羽生新棋聖」の話には、「7冠制覇は考えずに、タイトル戦に一つずつ集中していこうと思います」とあるが、これはなかなか笑える話である。何しろ、自分はこれからタイトル戦に一つずつ出てくると言わんばかりなのだから。明らかに羽生は、本人の明言に反して、全冠再制覇を考えていると見てよさそうである。