「自民党最後の政権」福田政権の内閣改造をめぐって


 昨日すなわち8月1日に福田政権が急遽内閣改造を行なった。といっても、そのニュースが新鮮に見えたのは閣僚名簿が発表されるまでであり、ふたを開けてみれば、「新学期の「席替え」程度」(保坂展人議員)という評価が相応な、つまり新味に乏しい内閣改造だった。


 あえて多少評言を並べてみると、今回の内閣改造で、福田首相が小泉のやり方に対して深い嫌悪の念を持っているようだということが改めてはっきりしたように思われる。人事ではサプライズは一切なし。「市場原理主義&小さな政府」を唱道する人士は内閣から完全に一掃された。また、死刑執行を盛んに行ない、最近の危険な俗情に媚びていた、要するにポピュリストである鳩山法相を再任しなかった。郵政離党組の閣僚・党幹部への起用も、小泉政治との訣別をはっきりさせている。


 小泉政治の否定はわかった――これは別にほめるべきことではなく、当然必要なことであるにすぎない。では次に、この内閣は何を目指すのか。改造直後の記者会見での福田首相の言葉によると、「新内閣は一丸となって物価高と景気低迷という、国民経済の直面する困難を解決していく決意だ」とのこと。現下の経済情勢に対応しなければならないのは当然で、これは「目指す」たぐいの話ではない。もちろん、内閣はすべからく何かを目指さなければならないというわけでは必ずしもないかもしれないが、少なくとも、今後の政権運営の基本方針ぐらいは必要だろう。そのような方針と言えるのはどのようなことか。話を聞き、記事を読んでも私にはよくわからない。つくづく福田首相が首相の器でないことを痛感せざるをえない。


 小泉政治の否定がそのまま方針なのではないか、と言う人があるだろうか。しかし、それだけでは到底充分たりえないと私は思う。小泉がやったのは「痛みに耐えて構造改革」――痛みとは例えば企業倒産であり、自殺者年間3万人の継続である――であり、竹中平蔵の起用に象徴される市場原理主義(そして拝金主義)の唱道であり、2005年のいわゆる郵政選挙に見られるような、政治の劣化である(総選挙の争点を単一化することなど、本来断じてすべきでなかった)。これを単に裏返しただけでは積極的な方針は出てこない。


 のみならず、今回の内閣改造には1つの大きな疑念がある。それは、この内閣は消費税増税の準備を考えているように見える、という点にかかわる。経済情勢に対して配慮しなければならないのに、よもやこの時期に消費税増税をするなどとは思いたくないが、しかし与謝野経済財政担当大臣を始めとして、伊吹財務相、谷垣国交相など、消費税増税に肯定的ないし積極的な政治家が複数、閣僚に登用されている。この点では、新内閣は実力者内閣どころか、危険人物の集まりに見えてくる。


 もう1点、谷垣氏にとって、国交相に起用されたことは自らの政治家としての真価を問われる出来事だろうと思う。利権政治家と対極にあると自らみなしてきたに相違ない氏が、利権の塊である国交省をどう統御できるのか。単に予算を減らすだけでは景気にマイナス効果しかもたらさないし、かといって旧態依然たるやり方をやるわけにも行かない。どういう事業を(もちろんこれまで以上に効率的に)やっていくかが見ものである。


 この点に関しては、全く案がないわけではない。私が考える案とは、都市部の道路に自転車道を設けるというものである。現在都市部では自転車は、多くの場合歩道の通行を許可されており、その結果、歩道を歩くのが危なっかしくて仕方ない。しかし他方で、現在の交通体系で本来自転車の位置とされている「車道左脇」は、これはこれで危なすぎる。やはり自転車には自転車用の道が与えられるべきである(そして当然、歩道での自転車の通行は禁止とする――そもそも自転車は「車両」なのだから)。道路整備としてこういうことを行なうのなら、国民の理解も相当得られるのではなかろうか。ろくに人が通らない地方に道を造るような愚挙は、いい加減にやめるべきである。谷垣氏にその決断ができるかどうかが問われていると私は思う。


 以上いろいろ書いたが、しかし最後に言うべきは、いい加減自民党政権は終わりにするべきだ、ということである。民主党の党首及び幹部も変わり映えしないと揶揄されるが、自民党の変わり映えのなさはそれ以上ではないだろうか。自民党の政治家たちは一度野党に下って冷や飯を食うべきである。そしてしばらく野党生活が続いて、なお自民党の政治家であり続けることができる人々がどれほどいるかが見ものであり、そしてそうできる人々が、再び民主党と覇を競うようになってもらいたいと強く思う。政権交代自民党のためにこそ必要なのである。


 なお、閣僚名簿はこちらで見ることができる。