改めて宮台氏に転身をお勧めする――「マル激トーク・オン・ディマンド 第326回」を見て

 やはり時間の無駄だった(後半の途中で視聴をやめたことをお断りしておく)。宮台氏がリードする回のマル激は、これまでも何度かろくでもないものがあったが(例えば漫画家の江川某が出てきた回)、今回の番組もまたそうだったと言ってよい。「右翼も左翼も束になってかかってこい」という番組タイトルになってはいるが、宮台氏のポジションは明らかに右寄り(というよりむしろ、左の否定)であり、小林よしのりをヨイショする一方で、若手の学者たる萱野氏(左派であることを自認しておられた)をあしらうために、たぶん萱野氏があまり読んでいないであろう文献をいくつか挙げてその内容をさらっと述べるということ(これは要するに単なるこけおどしである)をやっている。学者が「当然これは読んでいますよね」と言われて「いや読んでいません」とは言えない人種であることを踏まえ、かつ萱野氏が年下であることを踏まえて宮台氏がとった、口封じという点から見る限りでは効果的だった戦略と評してよい。


 しかし、そこで言われている左翼とやらの内容が、聞いていても少しもはっきりしないのである。何やら左翼=国家否定(=アナーキズム?)とでも言いたげだったようだが、そんなのは左翼のごく一部にすぎない(基本的人権を保障できるのが今日ではなお国家のみであることは、少し考えればわかりそうなものではないか)。それから、番組の発言の正確な引用ではないが、宮台氏はヴェーバー(の『職業としての政治』?)を引き合いに出して、統治を行なう者(政治家)は遵法精神だけもっていてはだめで、時には脱法することもできなければならないというような怪しげなことを言っていた。この場合、脱法ということで念頭に置かれているのは(具体例を宮台氏は明示していなかった)、例えば祖国防衛戦争といったことではないかと思われるが、しかし、ヴェーバーの政治思想はいざ知らず、今日では自衛戦争もまた国際法で最小限度に制限されるようになってきているのである。もちろん、立法家が既存の法に縛られた考え方しかできないのでは困ることは言うまでもないが、それにしても、宮台氏の言っていることはちょっとおかしくないか。


 ついでに言えば、ヴェーバーという学者は、『世界宗教の経済倫理』の序文を読めばわかるように、一言で言えばヨーロッパ万歳という人だったのであって、『儒教道教』にせよ『ヒンズー教と仏教』にせよ、非ヨーロッパがなぜ近代化を進められないかという視角から論じられたものだったと言ってよい。そしてその認識は、今やBRICs(言うまでもなく、IndiaとChinaを含んでいる)の台頭という事実それ自体によって否定されているのである。ヴェーバーは、少なくとも相当程度、既に時代遅れになっていると言ってよい。


 ともあれ、素人を煙に巻く効果を有する上述のこけおどしがふんだんに盛り込まれたため、そういう薀蓄に興味のない当方のような素人にとっては、話を聞く興味が大いにそがれたと言ってよい。宮台氏が政治的な右へとどんどん舵を切りつつあることは、例えば氏のブログのこの記事からも窺える(内容がすべて石原寄りだとは思わないが、石原の前で「国士」という表現を臆面なく使ってしまうあたり、いやはやである)。神保氏との波長が全く合わなくなるか、或いは(可能性は低いと思われるが)神保氏が宮台氏に洗脳されきってしまうか。前者ならマル激は毎回レギュラー同士の喧嘩の舞台となるだろうし、後者ならマル激の存在意義はなくなるだろう。


 悪いことは言わないので、本ブログのこの記事で書いたようにぜひ宮台氏の転身の検討を、ビデオニュース・ドットコムは行なっていただきたいと思う。



追記
 ビデオニュース・ドットコムが番組に対するコメントを受け付けるようになり、本ブログの今回の記事で問題にした番組についてもいくつかのコメントが寄せられている。もちろん、本ブログの記事への直接の反応ではないが、それらを見て少し追記をしておきたいと思う。というのは、私が宮台氏を批判するのは別に今に始まった話ではなく、それはもう少し根が深い問題だからである。



 私の見るところでは、左派の凋落には大きく2つの問題がかかわっているように思われる。その1つはナショナリズムの台頭であり、もう1つは、宮台氏の言い方で言えばコーポラティズム、より普通の言葉で言えば社会民主主義を、魅力ある理念として提示するのに成功していないということである。


 このうちナショナリズムについての宮台氏のスタンスは、今の日本の政治家はナショナリストでなければならないというものだと言ってよく、氏はその点で左派に対して批判的なのではないかと思われる。いろいろな機会に漏れ聞こえてくる氏の歴史認識も、ナショナリスト的な歴史認識という趣が強く、そのため、氏は小林よしのりや漫画家の江川達也氏などと波長が合うのではなかろうか。これに対して、伝統的には左派はナショナリズムよりもインターナショナリズムを重視すると言われてきた。(その場合、過去においては、具体的にいわゆるインターナショナル(現在存在するのは第4次インターナショナル?)が相当の役割を果たしてきたのかもしれないが、そのあたりは私は不勉強にしてよく知らない。)


 こう述べた上で言うと、本ブログでは既に、宮台氏のこのようなスタンスに対して批判を述べてきた。具体的には例えばこの記事この記事で書いたので、万一興味をもたれる方があれば、ご覧いただければと願う。



 次に、コーポラティズムないし社会民主主義にかかわるもう1つの点について言うと、今日の世界で社会民主主義を魅力ある理念として提示することに成功している人は、私の見る限りでは全く見当たらない。なぜそうなのか考えてみるに、市場経済原理主義は、論理のレベルでは(少なくとも一見)論理的であることが、社会民主主義などに比べて(遥かに)容易であり、そのため、論理構築の点で社会民主主義はなかなかうだつがあがらないという事情があるのではないか、と思われる。またもちろん、80年代後半から90年代初頭にかけてのソ連・東欧の社会主義諸国の体制崩壊が大きな影響を及ぼし続けていることも、言うまでもあるまい。(ついでながら述べると、その時分繰り返し思ったものだが、社会主義を信奉していた人々が、そのような現実を前にして、思想的な反省を行なわずに転向してしまったのは、思想的に見て極めて不誠実だったのではないか。例えば、社会主義諸国では例外なく思想の自由が制限される状況が現出していたが、なぜそういう状況が生じるのか、かつて社会主義を信奉していた人々の中で、この点についてまともな説明を試みた人がどれほどいるだろうか。甚だ疑問である。転向をする前に、例えばこういった点について自分なりの結論を出すべきだったのではないか。このあたりの思想的不誠実さも、社会民主主義の旗を掲げなおそうとする際の見えない障害となってはいないだろうか。)


 しかし、市場経済原理主義を批判することは決して不可能でない。それは、批判の根拠として道徳を持ち出すなら、十分に可能である。例えば所得格差・資産格差の問題について、あまりに格差がつきすぎることが果たして良いかどうか、これは道徳の問題だが、もっと議論されてよいだろう。そしてそのような議論の中から、市場経済原理主義に対する根本的な批判が出てくる可能性は十分にある。


 また、本ブログで何度か書いていることだが、為替を投機対象とする現在の経済の状況は、今後も放置されていて果たしてよいのか。株式をめぐる投機は、もちろん個人的には良いことだなどと少しも思わないが、しかし株式発行の経済的機能に鑑みて、とりあえず許容してもよい。しかし為替については、それを投機対象とすることの影響はあまりに大きすぎる。これは、規制することこそが、人類の英知の進むべき方向なのではないだろうか。


 もちろん、社会民主主義はもっと社会の広範囲にかかわることであり、それらすべての領域についてここで述べるべき考え・アイディアを、私は持っているわけではない。しかし、社会民主主義の旗をどうやって掲げなおすかというような問題こそ、本来社会学者が必死になって取り組むべき問題ではなかろうか。宮台氏は、衒学的に振舞う暇があるならもっと勉強して、社会問題について自らの処方箋を示せるようになるよう努力するべきだと私は思う。


 それにつけても、議員の世襲は政治から駆逐されなければならない。