メディアよ、怒るな−−そしてもっと調べよ

 今回のマル激トーク・オン・ディマンド第323回(2007年06月07日)「なぜ報道被害は無くならないのか」は、報道被害をなくすためにどうしたらよいかということについて、当たり前の話をやっていたと言える。が、当たり前だからといって、重要でないことにならないというのは、改めて言うまでもあるまい。


 今回の番組を見ての感想は、表題に書いたとおりである。すなわち、メディアは怒るな(より正確に言うなら、煽情的な報道をするな)、そしてもっと調べよ。例えば「裏を取る」ということは、ジャーナリズムの基本中の基本のはずであり、その基本がきちんとできていれば、番組で取り上げられていた報道被害の例の少なからぬものが防げたのではないかと思われる。


 被害者側に寄り添うというのは、犯罪報道の際にメディアのすべき最も重要なことではないだろう。メディアにとって最も重要なのは、犯罪がどのようにして起こったかを明らかにし、さらにはその犯罪の背景を明らかにすることだと思う。なぜなら、今の社会がもっているひずみ・矛盾などのたぐいの噴出・現れとして犯罪を見るという点にこそ、犯罪報道の意義は存すると思われるからである。そしてそのような犯罪報道を実践するためには、メディアはもっと調べなければならない。これに対して、被害者側に寄り添うことは、むしろ怒りを惹起させることにつながる。それは要するに、煽情的な報道を肯定するのと大差ないのではあるまいか。


 犯罪報道において煽情的な報道の仕方(そういう報道の仕方がメディアスクラムという問題の原因であることは、言うまでもないだろう)がなくならず、むしろ激化している−−これは特にテレビの報道について言えることだろう−−、その理由は、そういう報道の仕方のほうが視聴率を取れるから、ということではないかと思われる。これについてはどうしたらよいか。


 マル激の番組でも話題に出ていたように、これは視聴者・読者の姿勢が問われる問題だと言えるが、まず何よりも、自らを心ある視聴者・読者と思う人々は、すべからく、煽情的な報道を拒否することを貫くべきだろう。具体的には例えば、「朝ズバ!」に見られるような煽情的なニュース報道は目にしないことにする、といったことである(みのもんたのニュース報道は目に余るほどひどい、と私は思う)。また例えば、昼ごろにたまたまテレビをつけてボケっとワイドショーを見続けるなどという無自覚的な行動もするべきではないだろう。見るに値しないものは一切見るべきでない。


 この関連でもう一つ心すべきことがある。それは、確か何かのシンポジウムの折にジャーナリストの高野孟氏がテレビについて言っていたことだが、テレビは娯楽もやる報道機関なのではなく、報道もやる娯楽機関なのだ、ということである。NHKはまだしも、民放を見ていて社会の諸問題についてまじめに考えるというのは、私にはほとんど自己矛盾のように聞こえる。もちろん、民放でもニュース23のような例外は稀にあるが(他方、報道ステーションはどうしようもない・・・まず古舘のあの話し方がどうしようもなく、そしてその話し方を真似する女性アナの話し方は、あほらしくて聞いていられない)、だいたいはだめと考えておいた方がよい。速報性に劣るとしても活字メディアを読み込む方が、社会問題を考える際には遥かに重要である。


 現実の視聴率が、ここで書いているのとは異なる方向で推移している、という批判があるだろうか。もちろん、そのような批判は現実を言い当てているのだろうが、しかしだからといって、視聴率至上主義でよいわけはない。だめなものはだめと言い、かつ実行する人々が少しでも増えることをまずは期待する、そこから始まるほかはないのではあるまいか。社会が変わるとは、とどのつまりそういうことなのだから。



 最後に一言。メディアのあり方について話す中で、宮台氏がメディアの資本の閉鎖性(非上場といったこと)を批判していたが、これは全くのお門違いだと言わざるをえない(アメリカのメディアが金融資本に揺さぶられている現実を宮台氏はご存じないのだろうか)。改めて、宮台というコメンテーターの質(の低さ)を再確認させられた。