イラク反戦母の撤退宣言

 速報を行なうのは本ブログの使命ではないが、このニュースは日本ではまだあまり知られていないかもしれない。Democracy Now!のDAILY EMAIL DIGESTによって知ったのだが、アメリカにおけるイラク反戦活動の象徴的存在だったシンディー・シーハン(Cindy Sheehan)が、表立って反戦活動を行なうのをやめ、撤退するというのである。


 シーハン女史が決心に至った詳細は、この文書に書かれている。それによると、当初反対の矛先をブッシュ大統領共和党に限定していた頃には、自分は民主党支持者からお気に入り(darling)のようにもてはやされたが、矛先を民主党にも向けると批判が強まってきた。「右か左か」(言うまでもなく、アメリカにおける「右か左」、つまり共和党民主党かということである)ではなく「正義か不義か」が問題だと自分が言っても、二大政党のシステムの中で、人々は自分の主張を理解しなかった。加えて、自分が到達した最も痛切な結論は、息子のCaseyの(イラクでの)死は全くの犬死だったということだ。このアメリカという国は、何人の人々が(イラクで)これから死ぬかよりも、誰が次の「American Idol」になるかの方に関心がある国なのだ、と。


 日本でも二大政党制を指向する動きがあり、ともするとあらゆる政治闘争がそれによって染め上げられかねない風潮がないわけではないだけに、この話は決して他人事ではない。本ブログの立場も、今の日本の政治を大きく変えるにはまずは政権交代が必要だというものだが、しかし、政権交代はあくまでも手段でしかないことをよく理解しなければなるまい。政治の中のよどみを一掃する、或いは一掃まではできないとしても相当程度風通しを良くする、そのために政権交代が不可欠なことは明らかである。しかし、政権交代は万能薬なのではない。例えば日本の平和主義を守ること、これは政治的立場の如何にかかわらず掲げるべきテーマだと私は思う(もちろん、こういう考え方に対して反対する人もあるだろうが)。最も重要なことは、例えば基本的人権、例えば平和主義、例えば民主主義の根本理念(物事の決定については「自分のことは自分で決める」、意見の相違については「話せばわかる」といったこと)といった、価値(政治的価値)を守ることであり、政権交代はそういう価値の実現・保持のための手段の一つにほかならない。有権者たるもの、このような次元の違いを踏まえて、ふだんの政治的活動(政治の動向を注視し、或いは発言し、或いは集会・行動に参加し等々)と、選挙時の行動(すなわち投票)とを行なうべきではないかと思う。言うまでもなく、反戦は、ここでの区分(価値か、価値実現のための手段か)に即して言えば、価値の方に属すると言えよう。


 もう一つ、シーハン女史の言葉には傾聴すべき点がある。それは、戦場での息子の死が全くの犬死だったことの確認、という点である。身内を戦場に送り出した者にとってこれくらい悲痛・痛切な結論はないだろうが、しかしこれこそが戦争の現実なのだということを、我々は身にしみて理解する必要があるだろう。戦争での死は犬死なのである。名誉の戦死などというものはない。仮にその戦争が全く自衛のための戦争であって(いわゆるイラク戦争について言えば、イラクの人々が戦ったのは全くの自衛のための戦争だった)、そしてその戦闘によって自国の独立が保たれたとしても(イラクの場合にはそうはならなかったが)、すべきなのは、その戦争によって死んだ者の死を嘆くことだろう。死者を顕彰するなどということはすべきでない。自衛戦争によって守るべきなのは、単に国の独立というよりむしろ、その国が掲げ守っている価値(政治的価値)であると言ってよいが、なぜそのような価値を守るべきなのかと言えば、そのような価値を享受して暮らす人々の生活・いのちを守るべきだからである。つまり、人間が(人間らしく)生きること、それこそが守るべき究極の価値なのである。この観点から見れば、死は嘆くべきもの以外の何ものでもありえない。


 繰り返すが、戦争での死は犬死である。靖国神社を戦死者の中心的追悼施設にしようとする人々は、この現実に目を向け、戦死者の顕彰などというまやかしを捨てるべきである(したがって当然、靖国神社は戦死者の追悼施設として全くふさわしくないと考えるべきである)。そのことを、シーハン女史の言葉は教えてくれているように思う。