いじめ問題にいかに対処しないか

 こういうタイトルで一つ書いてみようと思い立ったのは、よく見させてもらっている社民党保坂議員の次のブログを見たからである。
<「いじめをなくそう」スローガン禁止(太田総理)について>
http://blog.goo.ne.jp/hosakanobuto/e/314e4b783703c8e997f4c964c60c71bb
いじめは「なくそう!」などというスローガンを言えばなくなるというようなものではおよそないわけで、こういうスローガンには確かに全く意味がない。


 ところでその保坂議員は、どう対処すべきかという問題に対して、次のように言っている。

「いじめ」を解決する道は、子どもたちが夢中になって別の関係を作り上げて、楽しさ・充足感の中で「いじめ行為」そのものを客観化し、「ああ、そんないじめをしていたこともあった。ゴメンネ」と現在とは切り離した過去の出来事としてとらえることが出来るようにすることである。あえて、スローガン風に言えば、「いじめを溶かそう」って感じだろうか。

保坂氏は教育問題に関しては一家言を持っておられるのだろうから(私自身は、少なくともいじめ問題については、そのようなものは持ち合わせていない)、あえてその全体に異を唱えるつもりはない。ただ、いじめられた側が、いじめた側から「ゴメンネ」と言われたくないケースはあるだろうな、とは思う。言うまでもなく、いじめであれ戦争であれ(以下列挙は略)、加害者と被害者とでは、当の出来事について痛切な記憶を持ち続けるのは加害者よりもむしろ遥かに被害者の方だろう。いじめられた側が、いじめた側と一切没交渉でありたいと思う気持ちは、(もし、いじめられた側がそう願うのであれば)尊重されるべきだろう。


 朝日新聞が少し前から、第1面の目立つところに、「いじめられている君へ」とか「いじめている君へ」といった題でいろいろな識者などに文章を書かせている。こういう企画自体が良いものだとは必ずしも思わない。特に、「いじめている君へ」などという題でいろいろな文章を書くことは全く無意味なのであって、いじめをしている輩は、子どもであれ大人であれ、人間のクズだと言えばそれで十分なのである。この「コラム」に出てくる文章は、大部分は意味のない駄文だと言ってよいかもしれない。


 ただ、11月17日づけで鴻上尚史が書いた文章は良いと思った。言うまでもないが、私はこの劇作家の演劇には一切興味はない。テレビに出てきているところを見ても、良いと思ったことは一度もない。が、この文章は良かったと言わなければならない。ここで全文を引用することはしないが、鴻上氏はいじめられている側にとにかく逃げることを勧めている。正解だと思う。そして、「次にあなたにしてほしいのは、絶対に死なないことです」「死んでも、いじめたやつらは、絶対に反省しません」と言っている。これもまた、実に当たっていると思う。とにかくそのようにして、何とかして大学にまでたどりつけば、大学は(良かれ悪しかれ)個々人がばらばらなところである。いじめというのは逃げ場がないから起こるのであり、大学のように個々人がばらばらになってしまっていれば、もはやいじめは起きない。そのような場所で、自分のやりたいことをやれば良いのだろうと思われる。


 自殺に関しては、よく思い出すのは、その昔朝日新聞中島らもが連載していた「明るい悩み相談室」での或る回答である。1988年5月1日に出たその答えと、もとの問いとを引用しておくことにする。

 Q よくドラマや映画で、飛び降り自殺をしようとしている人を通りがかりの人が見つけて「おい、やめろーっ」と叫ぶ場面があります。ほんとうは「やめようかな」とためらっていた人でも、「やめろーっ」と下から注意されると意地になって飛び降りてしまうこともあるでしょう。飛び降りた人はそれっきりなのでいいですけど、「やめろーっ」とどなった人は一生「あのとき何というべきだったのか」と悩むと思います。らもさんなら何と叫びますか?     
 A いろいろ考えてみたのですが、変な結論に達してしまいました。そういう場面で一番効果のある思いとどまらせ方は「こらっ。後で道路を掃除する人のことも考えろっ!」
 とどなることではないかと思うのです。あるいは
 「そんなとこから飛び降りて、子どもにでもあたったらどうするつもりだ!」
 でもいいかもしれません。
 暗い話で恐縮ですが、僕も今までに死にたくなったことが2回だけあります。そのときに思いとどまった直接の原因は、後がどうなるか、ということでした。無意識のうちに、何か思いとどまるための大義名分をさがしていたのかもしれません。
 たとえば手首を切る方法を選んだとして、家でそれをやったら、タタミからフスマから天井板から、全部張り替えないといけないでしょう。ふろ場なら洗うだけで済むかもしれませんが、後々、家族はおふろに入るたびに気味の悪い思いをしなければなりません。
 死ぬのは人の勝手ですが、勝手なことをする以上、せめて人にかける迷惑は最小限にすべきでしょう。ところがそういう風に考えていくと、人に迷惑を与えないとか、他人の一生に悲しい影を落とさないで済む自殺などというものはないのです。それなら不本意ではあるけれど、やめようか、ということになります。
 ですから、飛び降りにしても「自分で自分の後始末ができるのなら飛び降りろ」としかられると、返す言葉につまると思います。


 自殺をすることは人間が有する自由の一つだという考え方があり、それを全く否定し切るつもりは私にはないが、しかし、こと「いじめ問題」に関して言えば、問題になっているのは、なお言わば「命があぶなっかしい」年ごろの子どもである。そういう子どもに対しては、上述の鴻上氏のように「絶対に死ぬな」と言う方が正しいように思われる。(念のため付け加えれば、政府の経済失政によって自殺者が急増し、1998年以来3万人の大台で推移していることは、もちろん社会問題なのであって、「自殺をする自由」の問題だなどとは私は思っていない。)


 それにつけても、議員の世襲は政治から駆逐されなければならない。