「美しい国」というスローガンのどうしようもなさ

 「美しい国」について論じると言っても、私は例の安倍の新書などはもちろん読んでいないし、読む必要は認められない。ここで問題にしたいのはあくまで、キャッチフレーズとしての「美しい国」のどうしようもなさである。



 まず、政治目標として「美しい国」などというスローガンは全く失格だと言わざるをえない。常識的に考えても明らかなように、何が美しいかと思うかということは、個々人によって千差万別である。或る人にとって「美しい」ものは、他の人にとって必ずしも美しくないかもしれない。つまり、美しさとは、主観に最も左右される概念(の一つ)なのである。ここに、この「美しい国」というスローガンの決定的なだめさがある。


 まともな政治家なら、「所得倍増論」とか「資産倍増論」とか、或いは江田三郎氏の「江田ビジョン」のように具体的な項目を掲げるとか、客観的に認識可能な事柄をスローガンに掲げるはずである。これに対して「美しい国」になったかどうか、誰の美的センスに基づいて判断するのか。まさか、安倍は自分の美的センスが絶対だと思っているのではあるまい−−もしも万一、そう思って「美しい国」をスローガンにしているのなら、安倍は独裁者気取りであり、民主主義国の指導者としては全くふさわしくない。そして、誰の美的センスも絶対視されえないなら(当然、されうるはずがない)、政治の結果日本が「美しい国」になったかどうかは、判断不能である。かように「美しい国」とはくだらないスローガンなのである。


 この点を措いてもう少し考えてみると、「美しい国」とは、例えば国土の美しさを言いたいのだろうか。しかしこれについては、国土の美しさについて政治に何かできるなどという思い上がりをまず捨てるべきだと私は思う。山に捨てられるゴミを政治の力で少なくすることができると? そんなことは国土の美しさとは何の関係もないと、私なら答えるだろう。もともと、山にであれ都会の道端にであれ、ゴミを捨てるなど論外なのであり、ゴミがなくて当然、その当然の状態を「美しい」などと形容する必要性は少なくとも私には認められない。−−もっとも、「美しい国」を言う安倍に、山でゴミ拾いをしてもらうことは良いアイディアかもしれないが。


 そうではなく「美しい国」とは人心の美しさを言っているのだろうか。安倍は教育基本法の改正にご執心だと聞くから、むしろこちらの線で考えている可能性の方が高いのだろう。しかしこれについても、人間の心の問題に政治が何かできるなどという思い上がりをまず捨てるべきだろうと私は思う。


 人心の問題とは、道徳の領域に属する問題である。確かに、政治という営みの背景には道徳がつねに伴うとは言えよう。なぜなら、政治が作り出す法律は、ふつう道徳という基礎の上に成立するものだからである。しかしながら私の誤解でなければ、民主主義的政治とは、多様な価値観の存在を前提として、その上で最良の妥協を見いだす、そういう営みなのではないか。であるなら、政治は道徳の領域にくちばしを挟むべきではないのである。道徳の問題は、宗教家であれ道徳教師であれ、そういった(政治家以外の)他の人々に任せなければならないのである。


 こうして考えてくると、浮かび上がってくるのは、安倍のどうしようもない傲慢さである。安倍は自分を何様だと思っているのだろうか。


 だから、議員の世襲は政治から駆逐されなければならないのである。