与党の思い上がり、ここに極まれり――「委員長不信任」「登院停止」の強行採決

 「委員長不信任で排除 与党が民主へ異例の“懲罰”」(東京新聞)というこのニュースを聞いて、与党の思い上がりに対して怒りを覚えない人がいたら、失礼ながらその方の頭はどうかしていると言わざるをえない。なぜなら今回の与党の暴挙は、与党野党といった次元を超えた、議会制度自体に対する重大な挑戦を意味するからである。なお、より詳しい状況は社民党の保坂議員のブログの記事が伝えている。(このニュースを今日になるまで知らなかった不明は、筆者自身恥じなければならないが、ただあえて言うなら、問題の重大さに比して報道での扱いがあまりにも小さすぎると思われる。)


 本ブログの以前の記事でも既に指摘したことだが、もし民主主義の根本原理が多数決なら(私自身は、多数決は民主主義の根本原理などではないと考えているが)、議会制度などというものは全く要らないことになる。なぜなら、与党が法案を提出した途端に、それは多数派の提案であるがゆえに承認・成立となってしまうからである。つまり、多数を頼んだ強行採決とは、他でもなく、議会制民主主義の自殺行為なのである。話し合いを尽くし、なるべく大勢の賛成を得るよう努力すること、これこそが議会制民主主義の意義であり役目であるはずである。


 ところが与党はこれを無視して多数を頼んだ委員会運営を行ない(今国会では、既に十指に余る回数、行なわれているのではあるまいか)、さらにそれを可能にするために、委員長不信任などという挙にまで及んだ。


 さらに今回のニュースでひどいのは、その結果決められたことが、選挙によって選ばれた代表たる議員に対する登院停止処分(30日間)である、という点である。当の議員は正当な選挙によって選ばれてきた議員であり、その議員を登院停止処分にすることは、その議員が代表する民意がその期間無視されることになることを意味する。議員一人の問題ではない、民意が無視されるという問題なのである。そのような処分は、重大な法令違反を当の議員が犯していたといった(例えば、自殺した松岡農水相について疑われているような話がそれだろう)、よほどの状況に限って適用されるべきである。


 「委員長を羽交い締めにし、委員長席から引きずり降ろした」ことが重大な問題だと考える人がいるならば、その人はまず国会審議中継を普段から見るようにしてから物を言うべきである。強行採決の場面を何度も(もちろん中継で)見たことがあるが、あれは採決などではない。委員長の声など聞こえず、何が行なわれているのか、会議録には(まず間違いなく)後で何も記載できないであろうような状況の中で、強行「採決」は行なわれている。言葉が聞こえないのに、なぜあれで採決が可能なのか。そんな採決など、本来無効なはずである。我々は議会でプロレスをやれと言って議員を議会に送り出しているわけではない。整然と審議をし、しかも審議を尽くし、議論が出尽くしたところで整然と採決をせよ、ということが誰しもが求めるところである。今回の問題の場合、その審議はたった4時間ほどしか行なわれなかったと聞いている。批判をするなら、まずこの点から批判を始めなければならない。そして、委員長が委員長席から引きずりおろされたにもかかわらず、なぜ採決が行なわれえたかを自問するべきである。


 普段よく見るビデオニュース・ドットコムでは「安倍政権は簡単にはくじけない」などという題で自民党の代議士がとんちんかんなことを言っている番組があるようだが、(見ていないので、番組自体の評価は避けるが)「3月以降安倍カラーが鮮明になったことは、政権にとってプラスに作用していると、国民投票法や教育関連法での安倍政権の強硬路線を評価する」だと? ふざけるのもいい加減にしろ、思い上がるのもたいがいにしろと言いたい。こういう連中に票を入れ続けているようでは、日本の議会政治が自殺・自滅への道をたどるであろうことは必定である。


追記
 この問題について、一番まっとうに伝えていると思われるのは、上でも記事を引用した東京新聞である。これに対して、毎日新聞の記事ではこの問題を政局との関係で扱っている記事が散見される(例えばこれこれ)。アホかお前は、と言いたい。政局との関係で扱うなとまでは言わないが、まず何よりも、こういう重大な決定を、与党のみの多数で、しかも極めて強引な手法で、決めてしまうことに対する批判が一言あってしかるべきである。識者の意見を使うのでもよい、記者自身がその異例さを強調するのでもよい、まっとうな判断をまず示してから政局論をやれと言いたい。新聞は公正中立であるべきだから、記者の意見は述べるべきではないなどと記者が思っているのであれば、またもや「アホかお前は」と言わなければならない。


 少なくとも、多少とも考える頭を持っている人間の目から見れば、新聞であれテレビであれ、それぞれが偏っているのは当然である。中立不偏などと称するメディアこそ最も怪しむべきだろう。ただ求められているのは、節度を以て報道することである。また、偏っているのと、偏狭であるのとは必ずしも同義ではないのであって、読者・視聴者に対してなるべく広い視野を提供するように報道機関は努力するべきだろう。確固たる思想信条を持っている人間がいるとして、異なる意見に対して耳を貸すかどうかで、その人間の度量が問われるのと、それは全く同じことである。