ポピュリズムとしての石原都政

 まだ公示になってはいないが事実上既に始まっている東京都知事選において、石原現知事が他の候補に比して優勢だとの世論調査が発表された。記事はこちら。予想された事態ではあるが、もちろん、石原3選というのは全くの悪夢以外の何ものでもない。


 しかし、現実は現実である。そこで、これを直視して、今の東京さらには日本の政治のありようについてもう少し考えてみる必要がありそうである。


 石原都政の最大の問題は教育面に見られるもので、君が代・日の丸の尊重を教師に対して命令し、その命令に逆らう教師を処分するというやり方がそれである。


 都民の多くが石原現知事を支持しているということは、この問題について、都民の多くが石原のやり方を支持しているということを意味するのだろう。ではその背景にあるのはどのような考えか。想像するに、次のようなものなのではないか。すなわち、今の教育にはいろいろ問題がある。そのような問題が生じるについては、いわゆる「ゆとり教育」の問題もあるだろうが、それだけでなく教える教師の側にも問題がある。であれば、教師をもっと叱咤して、必要ならば研修を受けさせることはやるべきだ。君が代・日の丸の問題も、卒業式だけの問題ではないか。その時ぐらいは、公務員は上からの命令に従うべきだ、と。


 私見によれば、君が代・日の丸の尊重を教師に対して命令するということが教育現場にもたらす圧力は、「卒業式だけの問題」などと局限してよい問題では決してない。既に教員の多くは組合には加入せず、上を見るヒラメ教師が増えているという現状があるが、この圧力はそのような現状に拍車をかけるものだと言ってよい。上からの命令が通りやすくなる、ということはつまり、教師の側の主体性がそれだけ損なわれるということである。


 ところが実際には教育は、教える方にとっても教わる方にとっても全人的な営みであり、それを十全に行なうためには、十全な主体性がどちらの側にも不可欠だと思われる。教育とは、人間と人間のぶつかりあいなのである。それなのに、教師の注意のうちの何割かが、子どもではなく学校教育制度の制度的上層(校長とか教育委員会とか)に向けられるようになることが、どうして教育にとってプラスだろうか。教師のそのような態度は、必ずや子どもの目にも見え透いて映るものである。これが教育にとってプラスだとは到底考えられない。むしろ著しいマイナスであり、教育の意義の重大さを思えば、その影響の大きさは由々しきものだと言わなければならない。


 少しでも考える人間には明らかなように、現下の教育の最大の問題は、家庭での教育にこそ存する。これは、先に政府・与党が強行採決によって成立させた改正教育基本法の中にも見られる認識である(でなければ、家庭教育に関する文言が、法律の中にあのように盛り込まれるはずはない)。家庭できちんとしたしつけ等の教育を受けていない子どもを押しつけられるからこそ、教師は困り、学級崩壊などという問題が起こるのである。また、現下の教育のもう一つの問題は、教師が忙しすぎる点である。これは初等中等教育に限った話ではないが、とにかく教師は忙しすぎる。こういうことを言うと、それでも教師には夏休み等があるではないか、という反論があるかもしれない。しかし、今の教師は夏休みも忙しいようだ。
 (なお、私自身は、学校の年度を9月から開始し6月で終了することにし、7・8月については、教師は校務を行なわない−−但しその代わり給料も出ないが、7・8月にアルバイトを行なうことは当然認められる−−か、それとも校務を行なうかを選択できるようにしてみてはどうかと思っている。−−なお、言うまでもないが、7・8月に働かないとしても、だからと言って毎年契約が更新されるというような不安定な立場に置かれるようであってはならないのであって、1年のうち10ヶ月を働く常勤という形態で当の教師は採用されるのでなければならない。)


 話を都知事選に戻して、石原慎太郎にはおごりが見られる。これもまた周知である。ただ、これをマイナスと見ない向きが少なくないようだ。例えば「ババア発言」でも、これは本来女性がこぞって反対して良さそうな話のはずだが、どうもそうはなっていない。自分は「ババア」ではない、自分には関係ないと思っている人が少なくないからだろう。だとすれば、それは愚かしい話である。なぜなら、「ババア発言」は、そういう考えの持ち主でなければ出てこない発言だからであり、そしてそのような思想の持ち主が東京都知事であることが、都政運営に全く影響を与えないはずはないからである。例えば、ババア発言の主にいったいどういう福祉政策が期待できるのだろうか。石原を支持し、かつ今の東京では福祉問題が重要だと考える人々は、この点をじっくり考える必要がある。


 今回の都知事選に当たって石原が出した公約他の記事で既に指摘したように、これはマニフェストではない)を見ると、開発型の公約が並んでいるのが目につく。例えば「多摩地域、島しょ地域の未来をつくります」は全面的に開発型の公約だと言える。オリンピック招致が開発のための名目であるということは、既にこれまでの立候補予定者相互の討論の中で明らかにされたとおり。今たまたま東京都政は黒字転換を遂げているらしいが、それは企業収益の好調によるものであり、(徴税率の向上など)都政の成果と言える部分は少ないと考えるべきである。


 しかも、先日飯田橋のあたりを歩いていて東京区政会館なるどでかいビルを見つけたが、いかにも稼働率が低そうで、効率性を度外視して建てられた建物であることは一目瞭然である。直接これに関与しているのは23区であって都ではないのかもしれないが、都と23区の関係を思えば、これもまた都政の問題の一つだと考えてよいだろう。この種のハコ物行政は少しも止まっていないのである。石原都政が財政面から見てうまくやっているなどと思う人は、こういう問題をよく考える必要がある。新銀行東京の不始末は言うに及ばずだが。


 そして象徴的なのは、石原が出馬直前に発表した、低所得者に対する減税措置である。いかにも人気取りの政策であり、いかにもポピュリストのやりそうなことである。人を見下す石原には真の意味での民主主義などわかってはいない。石原の頭にあるのは人気取りの政治、ポピュリズムなのである。そして、そのような政策を選挙直前に打ち出すということは、本来の自分にそのような考えが全くなかったことを露呈していると言ってよい。そんな人間を再び都知事にして、果たして良いのだろうか。


 今回の都知事選の最大の問題は、こんな石原を再び当選させて良いのかということである。「石原都知事がダメなことは都政の私物化で明らかなこと」と言いながら、石原に代わって当選するべき候補を前面に押し出せない例えばこういう「テレビ知識人」は、問題が全くわかっていないと言わざるをえない。