殺人マシンとしての鳩山法相


 表題の問題については、改めて何か言うまでもないかもしれない。ともあれまずは、朝日新聞の記事の引用から。

4人死刑執行 鳩山法相のもと10人目「今後も粛々」
2008年04月10日13時25分


 法務省は10日、同日午前に4人の死刑を執行したと発表した。鳩山法相が昨年8月に就任以来、執行は昨年12月の3人、今年2月の3人に続いて3回目で計10人。法相は午前11時からの記者会見で「これからも、粛々とやらせていただく」と語った。これで確定死刑囚は104人になる。


 一時止まっていた執行が93年に3年4カ月ぶりに再開されてから、1人の法相のもとでの10人の執行は長勢前法相と並んで最多。前法相は4カ月に1度だったが、鳩山氏は2カ月に1度の間隔で執行命令を出していることになる。


 また、死刑判決の確定から執行までの期間は07年までの10年間でみると平均8年だったが、この日執行された4人のうち3人は確定後4年以内だった。


 法務省によると、執行されたのは、中元勝義(64)、中村正春(61)、坂本正人(41)、岡下(現姓・秋永)香(61)の4死刑囚。中元、中村の両死刑囚は大阪拘置所で、坂本、岡下の両死刑囚は東京拘置所で執行された。


 中元死刑囚は82年、大阪府和泉市の宝石商夫婦を殺害し、現金や宝石を奪った。中村死刑囚は89年に滋賀県内で、わいせつ目的や金目当てに、路上生活者と職場の元同僚の男性計2人を相次いで殺害、遺体を切断して捨てた。


 坂本死刑囚は02年、群馬県内で高校1年の女子を自分の車に押し込み、絞殺。女子の両親に電話し、生きていると装って身代金を要求した。岡下死刑囚は89年、東京都杉並区のアパート経営者を絞殺し、その殺害を共犯者の男性による犯行と偽装するために、男性を射殺した。

 この鳩山邦夫という法務大臣については、本ブログは過去に次のような記事を書いてきた。
人間としての感覚を疑わせる、死刑制度をめぐる鳩山法相の暴言」(2007年9月)
鳩山法相は更迭あるのみ」(2008年2月)
 この過去記事の表題に見られる考えは、もちろん少しも変わっていない。だから、今回の死刑執行について、新たに書き加えるべきことはほとんどないのだが、強いて言えば、感慨めいたことがあると言ったところだろうか。


 その感慨とは、以前に「客観性のある何かで事柄[すなわち死刑執行]が自動的に進んでいけば」と言っていた鳩山法相とは実は、人間ではなくて殺人マシンなのではないか、或いは、前は人間だったが、今は殺人マシンに成り下がったのではないか、というものである。確かに、死刑という刑が日本に存在する以上、それが実施されなければ、刑を存在させている意味はないという考えは、筋が通っていないわけではない。そもそも私も、死刑廃止論者と自己規定しているわけではない。


 しかし、鳩山法相を見ていると、何かが違うのである。なぜそう感じるのか。それは、死刑だから死刑にしたら良いという考えから抜け落ちているものがあるからである。つまり、人間を殺すとか、そしてその罪ゆえに人間が殺されるとかいったことって、もっと厳粛なことなのではないか、という感覚、これが鳩山法相には全く欠けているように思われるのである。


 自殺ができないから人を殺して死刑になりたい――こういう不届き極まる考え方で人を殺めて捕まった輩が最近いた。もちろんこの輩にも、問題の感覚は全く欠けているわけだが、思うに、鳩山法相のやっていることは、このような輩を助長しているにすぎないことなのではないか。


 そのような輩に対して、では何を望むべきなのか。可能なら私は、当の犯人が、自分が殺した人が殺された、その立場を、もちろんヴァーチャル経験で良いのだが可能な限りリアルな仕方で、体験することを切に願う。自分がやったことがいかに恐るべきことかを、もし想像力で想像することができないのなら、そのような仕方で味わってほしいのである。それによって、自分の罪を心から悔いてほしいと願う。そして、もし死刑執行が行なわれるとしてもそれは、受刑者のそのような教導を経た後に、しかるべく(必要なら関係者に周知させるなどした中で)行なわれるようであってほしいと願う。


 もちろん、仮に犯人が悔いたとしても、だからといって量刑を変えるべきでは必ずしもないだろう。犯罪の如何によっては、極刑やむなしということもありうる。しかし、悔いた人間は、殺人マシンではなく人間である。人間が人間として死を迎えることを希望するのは、そんなに滅茶苦茶なことではないと思うのだが。