新銀行東京をめぐるコラム


 本ブログでも何度かにわたって取り上げてきた新銀行東京の問題だが、ついに都議会は存続を決議した。言うまでもなく、穴のあいたバケツに水を入れようという所業であり、成功の見込みなど皆無に等しいが、そのことは、遠からず事実によって明らかとなるだろう。


 ここで話題にしたいのはむしろ、金融機関のあり方という観点から見た新銀行東京の問題ということである。たまたま、どちらも経済評論家ないし実際に銀行経営に関与している著者(つまりどちらも、経済のことを知らないわけでない著者)による、2つのコラムが最近発表され、その両者が実に顕著な好対照を成しているので、これを紹介したく思った次第である。まずリンクを紹介しておく。


新銀行東京のビジネスモデルは破たんしている! - SAFETY JAPAN(森永 卓郎氏)日経BP社
BizPlus:コラム:箭内 昇氏「企業と人―未来思考の変革」第87回「石原銀行は『名誉ある撤退』を」


 もちろん、一番良いのは、読者自身が自分で読み比べて考えることだが、そのような読者の一人として、ここでは私の感想を記しておくことにする。


 一言で言えば、両者が問題にしているのは同じことであり、それは、中小企業への高金利無担保融資という金融は銀行のビジネスモデルとして成立するか、ということである。この問いに対して森永氏はNoと言い、箭内氏はYes(より正確に言えば、Yesでなければならない)と言っている。


 森永氏の言い分は極めて明快である。氏は次のように言っている。

 身の回りにある中小企業を思い浮かべてほしい。そば屋、パン屋、自動車整備工場といった事業所が、15%の金利を払えるはずがないことくらい、冷静に考えたら誰だってわかる。


 現に、新銀行東京の貸出先のうち、2345件もが経営破綻しているという。経営破綻した理由は、けっして融資の量が足りなかったからではない。金利10〜15%で資金を借りようとしている企業というのは、経営が追い詰められて、にっちもさっちもいかなくなったところがほとんどなのである。


(中略)
 もちろん、新銀行東京の経営がずさんだったことは否定できない。しかし、公的機関だったことによる経営の不効率がその要因だったのでは、けっしてないとわたしは考えている。ミドルリスク・ミドルリターンというビジネスモデル自体に問題があったのだ。

 これに対して、もともと長銀日本長期信用銀行)におり、その破綻の後には経営コンサルタントとして活動し、2003年以来りそなHDの社外取締役となっている箭内氏は、(少々長い引用になるが)次のように書いている。

 石原慎太郎東京都知事の肝いりで創設された新銀行東京が、経営難に直面している。メディアは都知事の責任問題を扇情的に書きたて、このままだとやがて都政全体から中央政界の問題へ飛び火しかねない。


 だが、われわれは知事と旧経営者の確執など劇場型の報道に目を奪われて、その背後の本質的な問題を看過してはならない。


 その第1は、この「騒動」の淵源(えんげん)はメガバンクモラルハザードにあったことを、失念してはならないということだ。


 新銀行東京がスタートする1年前の2003年3月、筆者はこのコラムで銀行界に対して、中小企業向け無担保融資を本格展開すべきと主張した(第31回)。石原都知事が「バンク・オブ・トウキョー」構想を打ち上げた直後のことだ。


 当時のメガバンクは、不良債権処理で脆弱(ぜいじゃく)になった自己資本をカバーするため、露骨な貸しはがしを強行した。貸出資産を縮小すれば分子が減るので、自己資本比率は改善するというわけだ。手元資金は潤沢だが、企業には貸さないという奇妙な現象が続いた。


 その結果多くの中小企業が資金繰りに苦しみ、経営難に追い込まれた。銀行は中小企業の業績悪化は不況のせいといい、金融庁は銀行の努力不足のせいといい、政治家は金融庁の甘い指導監督のせいといい、中小企業は貸し渋りのせいという。


 筆者は、この醜悪な責任転嫁の連鎖を断ち切るには、まず銀行が長期的視点に立って、無担保融資を展開すべきと主張した。そのためには、企業審査力の強化やリスクに見合った適正金利の適用など、いわば「急がば回れ」の環境づくりから始めるべきとも主張した。


 だが、竹中平蔵金融担当相の猛攻を受けたメガバンクは、経営戦略もモラルもかなぐり捨て、豪雨に立ちすくむ中小企業から容赦なく傘を奪った。


 石原知事がそんな銀行界に業を煮やして無担保融資を核とする新銀行構想を打ち出したのは、政治家として当然だったかもしれない。まったく同時期に、木村剛氏が同趣旨の日本振興銀行を立ち上げたのも、憂国の士として必然だったのだろう。その意味で、新銀行東京日本振興銀行メガバンクモラルハザードが産んだ反動的な「落とし子」だった。


 筆者がそのコラムで「(石原銀行について)その政治的思惑は別として、一地方公共団体の首長にそんなアイデアを思いつかせること自体、金融関係者や政治家は恥と思うべきだ」と結んだのは、当時の正直な感想だった。

 この引用からも明らかなように、新銀行東京について箭内氏のスタンスは「その志や良し」というものである。


 では、要するに新銀行東京は存続するべきか、それとも潰すべきなのか。


 驚いたことに、森永氏は

 さて、今回追加出資する400億円であるが、これは現に新銀行東京に資金を借りている企業がある以上、やむを得ない措置なのかもしれない。確かに、いきなり新銀行東京を潰してしまうと、借り手は闇金に走るしかなく、バタバタと倒産が続出することが予想される。

と語り、都議会でこのほど決まった案は「やむをえず、諒とされる」といった具合である。しかしこれはどう考えても支持できない。森永氏がすぐ後で書いているように、

 残された道は二つである。一つは、新銀行東京安楽死させる方法。もう一つは、一般の銀行に衣替えさせる方法である。現に、貸出先の比重は中小企業から大企業に移りつつあるので、それをさらに推し進めていくわけである。つまり、優良な企業に低利で貸し出す、ローリスク・ローリターンに方針転換するのだ。


 逆に言えば、「新銀行東京は、けっして中小企業の味方ではありません。今後は金をかせぐための普通の銀行に変えていきます」と宣言をしない限り、400億円はまた無駄になるだろう。

安楽死させるか、中小企業向け融資という新銀行東京のそもそもの存在理由を否定するかしなければならないというのだから、これは「いずれにせよ新銀行東京は終わり」と言っているようなものである。ならば潔く、名実ともに終わりとするのが至当なのではあるまいか。


 これに対して箭内氏は、コラムの題それ自体に見られるように、新銀行東京清算すべきとしている。その理由は、箭内氏自身によれば、「新銀行東京は取引基盤も人材もきわめて脆弱(ぜいじゃく)だ」「(新銀行東京では)ガバナンスが崩壊している」といったことである。営業基盤がなく、人材がなく、(広い意味での)経営体制が崩壊しているのであれば、清算という結論に到達するのは全く当然であり、その限りで、箭内氏の結論には賛成である。


 ただ、この2つのコラムの対比は以上で済むわけでは全くなく、さらにいろいろ両者の間には対照が見てとれる。例えば、不動産を担保とする融資に対する見方で、両者の立場は全く異なっている。両者の言い分を見ておくと、
森永氏

 日本の銀行による不動産担保融資に対して、批判する人は多い。しかし、考えてみれば、これは世界最強のビジネスモデルでもある。


 というのも、銀行業というのは預金を預金者から預かり、元本保証で返さなくてはならない商売だからである。そうした事業をしている限り、資金運用において高いリスクをとってはならない。リスクが悪いほうにでたら、元本保証で預金を返せないからだ。


 そもそも、リスクの高い、いわばイチかバチかの資金というのは、銀行のような間接金融が担うべきものではなく、株式や債券の取引のような直接金融が担うべきものである。

箭内氏

 筆者は2003年6月にりそなの社外取締役に就任して以来、わが国中小企業の貸出市場を注視してきたが、一言でいえば、メガバンクはじめすべての銀行が殺到する「仁義なき戦場」である。


 しかも相変わらずの担保主義であり、ダンピング金利が横行している。一部のメガバンクは貸出金利の正常化を狙って金利引き上げを試行したが、たちまち低金利を提示するライバルに顧客を奪われて挫折した。

 言うまでもなく、不動産担保融資というのは、いざという時に担保を処分して元本を確保しようなどという考えから行なわれているわけでは必ずしもなく(そういう事態すなわち借り手企業の倒産に立ち至ったなら、元本が回収できなくなるであろうことは確実である)、借り手企業がまがりなりにも回っていくことを前提とした融資であるのだが、もちろん箭内氏はそんなことは百も承知の上で、担保なしで貸し出す際の目安となる金利市場が形成されるべきだと説いているのだろう。しかし、そんな市場が果たしていつの日か出現するのかどうか(また、それが良いことなのかどうか)、森永氏ならずとも疑問に思うのは当然である。(箭内氏はコラムの中で外国との比較を行なっているが、私の誤解でなければ、外国では一般に企業の借入依存率は日本の企業よりも遥かに低い、言い換えれば、外国の企業は一般に日本の企業より自己資本比率が遥かに高いのではなかったか。)


 ついでに言うと、新銀行東京の設立に至るまでに若干の関与をもったという大前研一氏は、中小企業や(担保のない)ベンチャー企業への融資の可能性についてはにべもない。それは大銀行でも至難な分野だ、というのが氏の見立てである(出典はこちら)。


 その昔、日本経済は大企業と中小企業から成る二重構造を持っている、という話をよく聞いたものだが、実はそういう構造は、少なくとも金融に関する限りは、昔から少しも変わっていないのではなかろうか。だとすれば、大企業に対する融資と、中小企業に対する融資とでは、やり方が当然異ならなければならないことになる。そのあたりに、問題に対する正解が存在するようにも思われる。ただ、その問題は他の様々な問題ともつながっていて、そのつながっている問題の中には、以前の日本には見られた株式の持ち合いが今では見られなくなったというような、状況の変化といったことも、考慮すべきこととして入ってくるのかもしれない。私のような素人が容易に見通せる話でないことだけは確かなようである。


追記
 これは今回のコラムに直接かかわることではないが、引用した2人のコラムニストを評価するための参考として記しておくことにする。まず、今回問題にした中小企業に対する金融のあり方について、箭内氏の主張は(それが正しいかどうかは別にして)数年来一貫しているようである。上で引用したコラムの中で箭内氏自身が言及しているこのコラム(箭内 昇氏「企業と人―未来思考の変革」第31回「中小企業向け無担保融資の本格展開を――無責任構造のメビウスの輪を断ち切れ」)を例えば参照すると、そのことがわかる。


 森永氏については、上のコラムと同じシリーズの中で、今年の始めに氏は「2008年景気展望(1) 戦後初のスタグフレーション到来か」と書き、その少し後では「一見インフレの現在の状況は、デフレである!」と書いている。単純に、この2つは矛盾しているのではないだろうか。