ヒトラーの映画を作ること

 「パソコンテレビ GyaO [ギャオ] 」で見られる映画の大部分がくだらない映画であることは、私が改めて言うまでもないことかもしれない。しかし、時々良い映画が出ることもある。本ブログでも以前に「エンド・オブ・オール・ウォーズ」(DVDでは『クワイ河収容所の奇蹟』というタイトルになっているようである)という映画を紹介したが、それに続いて今回紹介したいのは「ヒトラー 〜最期の12日間〜」である。


 粗筋は改めて言うまでもあるまい。当然ながら、ヒトラーが自殺しドイツが連合軍に対して無条件降伏をするまでの戦争末期が、敗戦国の側から、敗戦国政府の中枢に主に視点を据えて描かれているのである。


 この映画に対しては、ドイツの映画監督ヴィム・ヴェンダースによる長大な批判的論評がある。あまりにも長いので読んでいないが、ウィキペディア(ドイツ語版)の記事によれば、この映画では秘書の視点から話が描かれてみたり、ラストのシーンではその秘書が元ヒトラー・ユーゲントに助けられてみたりと、一貫する視点がない、またヒトラーゲッベルスの死が正面切って描かれておらず、それは不相応な賞賛を彼らに与えることになる、などといったことが述べられているらしい。


 しかしヴェンダース氏のこのような批判は、(たぶん少なからぬドイツ人が示すのであろう)ナチ問題に対する神経症的反応の一例だと評してよいのではなかろうか。まず、この映画を冷静に見る者なら誰でも、この映画が根本的な意味でヒトラーに対する批判を含んでいることに気づくはずである。その批判は、ヒトラーの言葉として繰り返し出てくる「国民のことなどどうでもよい」というセリフに例えば含まれている。(実際にヒトラーがそう言ったか言わなかったかはこの際重要ではあるまい。なぜなら、ヒトラーがやったこと自体から見て、このセリフは彼のセリフとして相応なものだろうと考えることができるからである。)そして、ゲッベルスはそのようなヒトラーに、(心酔のゆえだったというふうに映画では描かれているが)徹底的に追従している。これによって、ゲッベルスもまたヒトラーと同罪であることが、映画鑑賞者には明瞭に理解されうるのである。確かにヒトラーは人間として描かれている。そして、あのくらいの地位にまで上った人間に、人間的魅力が全くないなどということは、まずありえない。したがって、たとえヒトラーを描くのであっても、多少の人間的魅力とともに描かれることがあっても不思議ではない。しかしそのような多少の魅力を吹っ飛ばすほどの批判を、この映画はがっちり具えていると言ってよいだろう。心配には及ばないのである。


 むしろ、月並みな言い方かもしれないが、私自身はこの映画を見て、戦争の悲惨さ・無残さを描くには敗戦国の敗戦直前の状況を描くのが最も効果的だということを、改めて教えられたように思っている。映画など視覚芸術の良い点は、想像力の足りない点を補ってくれることであり、このイメージを使って例えば我々は、例えば現在現時点での世界の戦場(例えばイラク)でどのような悲惨なことが起こっているかを想像することができるのである。


 もう1つ、ドイツ人が負っている戦争責任はナチスに対するものだけで、ドイツ人一般は悪くないとされたということが、日本の戦争責任論との関連でよく引き合いに出される。しかしこの映画を見ると、戦時にはナチスはドイツ全体を覆っていたこと、そして当然ながら、フランスのヴィシー政権に対して叛旗を翻したドゴールのような存在はドイツには求むべくもないわけであり、したがって、当時のドイツ国家の主要な人材は挙げてナチスの体制に関与していたであろうこと、を改めて痛感させられる。そのようなものだったナチスの否定は、当然ながらドイツ全体にかかわらざるをえないはずであり(ノーベル文学賞作家のギュンター・グラスナチスとの関与の問題でやり玉に上がったのは記憶に新しいところである)、それゆえに、上で見たようなヴェンダース氏の反応も今なお出てくるのだろう。ドイツはドイツなりに、重い戦争責任を担っているのだということを改めて思わせられた。



 ところで、ドイツは自らこういう映画を作れたが、ひるがえって、果たして日本はどうだろうかと思う。敗戦直前の国土の状況(日本では本土決戦がなかったなどと抜かす輩は、どれほど悲惨な空襲が全国にわたって行なわれたかを知らないのだろう)、そしてそれを目の当たりにした政府中枢の動きを日本の映画人はこのように描けるだろうか。特に、ドイツの場合には狂気を体現する具体的な人格が存在したが、日本の場合には「国体護持」という抽象的な非人間性(すなわち狂気)の迫力を描けなければ真実には迫れない。これは、ヒトラーを描くよりも遥かに難しいことだろうと思われる。


 この映画が日本の映画人に奮起を促すものであってほしいと願う次第である。


 それにつけても、議員の世襲は政治から駆逐されなければならない。