「ネット時代のジャーナリズム」をめぐるシンポジウムを見ての感想

 ビデオニュース・ドットコムで無料放映中のシンポジウム
「いま マスコミに問われているもの−ネット時代のジャーナリズムとは?−」
http://www.videonews.com/press-club/0607/000861.php
を見て(見たのはとりあえず第2・3部のみ)思ったことを、いくつか記しておきたい。



 まず、「リテラシー」とか「ネットリテラシー」といったことが語られていたが、両者の間に混乱が見られるように思う。

 ネットリテラシーとは、例えば神保氏が言っていたように、或るブログが炎上する際に実はそこには仕掛け人がいてというような、インターネットに特有の言論事情をわきまえている、その意味での批判力、つまりネット情報に対する批判力を指すのだろうし、あえて「ネット」をつけて言うからには、そのような限定的な意味で使う方が良いように思われた。

 これに対して「リテラシー」は、これは単に情報一般(インターネットでのみ得られる情報に限られない)を批判的に摂取する力という意味で語られていたのだろう。

 意味はこういうことなのだろうと思われる。ただ、もともとliteracyという語は「読み書き能力」という意味なのだから、「リテラシー」にせよ「ネットリテラシー」にせよ、変に外国語を使うのでなく、「情報批判力」「ネット情報に対する批判力」とでもいうような日本語で語るのが望ましい。



 次に、ジャーナリズムの存在意義ということとの関連で、特に金平氏によって公共性ということが語られていたが、この点について少し考えてみたい。

 新聞に載るものは大きく分けて2つ、或いは3つあると言えよう。1つは記事であり、もう1つは広告である。3つ目を加えるとすれば、広告的な内容の記事がそれに当たるのかもしれない。これは紙の新聞でも、同じ新聞社のウェブサイトでも同じだろう。

 ここで、広告の場合、特にインターネットであれば話は明快だろうが、目的はクリック数を増やすことである。紙の新聞であれば、一人でも多くの人の目に触れることである。したがって、より多くの人が触れるWebページ(新聞の場合で言えば、記事のページ)に広告を掲載することがより望ましいということになる。

 そこで、もし徹底的に商業主義的な広告の打ち方をするなら、記事視聴率が問題になってくるかもしれない。或いは既に現在、どういう種類・内容の記事の閲覧数が高い或いは低い(したがって、広告を打つページとして適当である或いは不適当である)とかいう形で、問題になっているのかもしれない。否、これだけでなく、広告の対象と記事の内容との関連まで含めて、どういう種類の広告はどういう種類の記事を見た読者が多くクリックしている、というような情報の蓄積もあり、それが広告の打ち方にも既に反映されていたとしても不思議ではない。

 しかし、既に昔から番組視聴率が語られているテレビの場合には、私人たる広告主の意向が(新聞など他の形態のメディアに比べて)色濃く反映されているのではなかろうか、つまりそれだけ、公共性が損なわれているのではなかろうか。そうだとすれば、記事視聴率が広告主に知られ、それが広告を打つ際の判断材料として使われることが一般化すれば、それは記事の作成にも影響を及ぼしかねず、したがって新聞報道の公共性が損なわれる結果にもつながりかねないのではあるまいか。

 記事のページに読者からのコメント欄(或いはトラックバック欄)をつけることが、双方向性の試みとして肯定的な評価を受けがちだが、そのような試みは、それ自体としては記事視聴率をあからさまに示すことでもあるのだから、それによって記事の作成がより一層人気取りを目的として行なわれるようになる可能性もなくはないだろう。

 今述べたようなことは、メディアが広告を重要な収入源とする場合、相当程度避けがたい方向であるようにも思われる。そして、「より人気のあるものを載せることこそ公共性にかなっている」というような公共性理解すら、登場しても不思議ではないだろう。

 シンポジウムの中では、プロのジャーナリズムの発信をその他の雑多な発信と区別する根拠としてこの公共性ということが語られていたように見受けられるが、しかし果たしてそれで十分だろうか。



 私自身は、プロのジャーナリズムがプロたる所以は、それが信頼できる情報、つまり真実な情報を発信しているということが(読者として)期待できるところにあると思っている。つまり、公共性というよりはむしろ、信頼性或いは真実性の方が私にとっては重要である。そして、むしろそれこそが、一般的にみても、プロのジャーナリズムが自らの存在意義の証として掲げ続けるべき看板なのではあるまいか。

 プロのジャーナリズムの発信がなぜ信頼に値すると判断できるか。もちろん、概括的には、「大新聞が書いているのだから」「公共放送(=NHK、だが)が言っているのだから」というような形で信頼は付与されよう。しかし、いざ疑問が若干でも生じた時には(そして疑問自体は、案外日常的に発生するものである)、判断の基準となるのは、当の発信が典拠に基づいたものかどうか、ということである。そのようなことを普段から、些細なディーテイルを通じて再確認しつづけることによって、当該メディアに対して我々は信頼を付与し続けているのではなかろうか。

 逆を言えば、普段から「あれ、こんな報道で良いのか?」ということを、些細なディーテイルを通じて繰り返し思わせられるようだと、当該メディアに対する信頼は損なわれていく。そういうものなのだろうと思う。例えば、先日親王の誕生を受けて、「国民みなが喜んでいるだろう」などという発言が、ニュースのアナウンサーを含むいろいろな人の口から出てきた。しかし、いったい誰が「国民みな」が喜んでいることを確認できたのだろうか。もちろん、そんなことを確認できる人は一人もいない。だから、プロのジャーナリズムの担い手たることを自認する者は、確認できないようなことは言ってはならないのであり、例えば政治家がそういういい加減なことを言った時には、その典拠を求めて政治家を追及できるようでなければならない。

 信頼できる情報(=典拠・裏づけのある情報)を発信していくことにこそ、プロのジャーナリズムの存在意義があるということ、この点を強調しておきたい。



追記
 思い返してみて、金平氏が「公共性」ということを言う場合、氏はそれを、ジャーナリスト一人一人の根底にあって当のジャーナリストのプロ意識を支えるもの、というような意味合いで語りたかったのではなかろうかと思った。しかし、もしそうであるとしても、公共性という言葉は最適な言葉ではないだろう。最適な言葉は、私の考えでは「社会的正義」である。そして、社会的正義に対する意識は、プロのジャーナリストだけが専有するべきものでもなければ、プロのジャーナリストだけが専有していればよいものでも決してない。