何はともあれまずは政権交代が必要


 福田首相の辞任以来政界談義がかまびすしくなっている。本ブログもその例外ではないが、ただ、本ブログ自体は、言っていることは以前から少しも変わっていない。言いたいことは、表題に書いたとおりである。


 なぜこの自明なことを繰り返し言わなければならないか。その説明のために、「脱藩官僚の会」の江田憲司氏の言い分、というよりむしろ言い草を例に取り上げることにする。


 言うまでもないが、氏の言い分の中にはそれなりにもっともなところもある。例えば、

(前略)
 より根本的な要因、背景には、福田首相が、自分では選挙をしない前提の下に、慎重にベストの辞め時を考えていたことにある。半年前のこの「直言」でも披露したが、誇り高い福田首相としては、総選挙惨敗による不様な退陣だけは避けたい。一方、サミット後臨時国会前のこの時期は、比較的政治空白も生まず、無投票の民主党代表選にぶつけて開かれた総裁選をやり新内閣を発足させれば、ご祝儀相場で即解散、選挙も戦えるだろう。


 辞意表明の記者会見で、記者の質問にむっとして「私は自分のことを客観的に見れるんですよ」と言った意味は、内閣の支持率も低く、党内からも世論からも批判が強い自分が選挙をやれば惨敗は目にみえている、そのぐらいのことは認識していますよ、とことだ。また、元々、自分の選挙ですら奥様やご長男に任せていた方が、首相として全国津々浦々遊説して歩く姿など想像もできなかったはずだ。


 そして、「総裁選は華々しくやって」とか「何人も出て徹底的にやって」という、福田首相らしからぬ発言をあえてしているのは、自分は、自民党にとって、ベストのタイミングを考えて辞任を決断したんだよ、と言いたいがためだ。


 そして、今のところ、そのとおりの政局の展開になっている。私は、辞意表明直後から、テレビや新聞等の取材に対し、この「ご祝儀相場戦術」にだまされてはいけませんよ、と言い続けてきた。政権放り出しで「もうこれで自民党は終わりだ」「政権担当能力がない」と散々だった時から、これは自民党生き残りのための唯一のシナリオであり、新総理の下でのご祝儀相場解散で一気に自公過半数維持の計算づくの戦術だと、警告を発し続けてきた。


 しかし、案の定、先日の共同通信等の調査では、福田退陣後の新総裁への期待感で、既にご祝儀が出た。自民中心の政権、あるいは自民への支持率が急上昇し、民主党のそれを半年ぶりに逆転したのだ。確かに、もうだまされない、正体は見抜いているぞ、という国民もいるが、この数字は既にだまされ始めた国民が出てきたということを意味する。

 「福田は全国遊説などやりたくなかった」というあたりなどは、近くから福田康夫を見ていた人間なればこそ言える発言であり、興味深くある。


 しかし問題はその先である。すなわち、江田憲司氏は

 私は、今回の福田退陣をもっと広く、日本の「政治全体の劣化」ととらえている。福田首相が無責任だ、自民党がどうだといった次元ではなく、問題は日本政治全体の構造的なものととらえるべきと考えている。今の政党を前提とする限り、自民であれ、民主であれ、トップは中味がバラバラの党に足を引っ張られ、ろくな改革はできないのだ。私が「もう政界再編しかない」と叫ぶ理由である。

と言い、その理由として、日本の政党は氏が考えるような意味での政党の体を成していないと述べる。すなわち、氏によれば

 そもそも、政党というのは、当たり前の話だが、実現したい理念や基本政策があって、この指とまれで同志が集まり、実現していく政治集団だ。その基本的な要素が今の自民党、そして、民主党には自民党以上に、欠けているのだ。

という。自民党であれ民主党であれ、政策について様々な考えの政治家たちが集まって党を形成しているというのは、確かにそのとおりだろう。


 しかし問題は、そういう状況は、いわゆる「政界再編」をやって変わるものかどうか、ということである。或いは江田憲司氏は忘れているのかもしれないが、1990年代の日本の政治は、一時野党になったもののすぐに(社民党を巻き込んで)政権党に復帰した自民党を除けば、政界再編に次ぐ政界再編の10年だった(正確には1993年以降)。その結果が今の状況なのである。つまり言い換えるなら、日本の政治においては、政界再編をいくらやったところで、基本政策を軸に政党がまとまるなどということにはならないのではあるまいか。或いは、そういう政党は、日本の政治においては少数派にとどまり、政権を狙えるような政党にはならないのではあるまいか。問われているのはこういうことだと私は思う。


 この史的経過に鑑みるなら、日本では、これ以上いくら政界再編をやってみてもまず意味はないだろうと予想することができる。そしてなぜそうなのかと言えば、それは政治家の質の問題というよりむしろ、その政治家を送り出す国民の側に問題があるからだと思われる。


 そして、この国民の側の問題を如実に表しているのが、実は、江田憲司氏が指摘している事柄、すなわち、

福田退陣後の新総裁への期待感で、既にご祝儀が出た。自民中心の政権、あるいは自民への支持率が急上昇し、民主党のそれを半年ぶりに逆転したのだ。・・・既にだまされ始めた国民が出てきた

という事実である。このことは単に、国民がだまされ始めたということを意味しているだけではない。むしろ、国民の中に、長いものにはまかれろ、お上に任せておけばよい、自民党以外の政党に政権を任せるのは不安だといった、今や根拠を全く欠いていると評さざるをえない、抜きがたく度しがたい保守意識があること、このことを世論調査の数字は示しているのである。この保守意識こそが、日本の政治の今のていたらくの根本的な原因であると言ってよい。すなわちこの保守意識こそが、森政権末期に行なわれた総裁選で、本来首相の器でなかった小泉純一郎を圧倒的な票数で当選させ、また郵政選挙の時にも、やはり自民党の内部での変化のほうが、自民党政権が崩壊するという形の変化よりも良いという人々の意識に支えられる形で、自民党を圧勝へと導いた――このように見ることができる。


 それを改めるためには、ではどうすればよいか。やはり、自民党に野に下ってもらう以外に方法はない。それこそが、人々の救いがたい保守意識に対して、覚醒をもたらす一撃を与えることになり、日本の政治を真に変えるための第一歩となるだろうと期待されるからである。先日来、本ブログが「2度あることは3度ある」という言い方で民主党自民党を徹底的に批判するべきだ、などと書いてきているのも、自民党を政権から引きずり下ろすことこそが、日本の政治の新たな黎明をもたらすと確信しているからに他ならない。


 以上述べた意味で、政治学者の山口二郎氏が「「決戦の秋」来たる」というコラムで

私も、将来の政党再編成の可能性は否定しない。だが、今はまず、自民党民主党という二つの政党が政権をめぐって争い、雌雄を決することが先である。国民の意思表示ができないままで、政権の構成を変えるという国会議員の身勝手をこれ以上許してはならない。また、来るべき総選挙では、政権担当能力を失った自民党を罰することが、最大のテーマとなるべきである。

と書いているのは全く正しい。この山口氏は3年前には、郵政解散の直後に、小泉首相(当時)を賞賛するかのごときとんでもないコラムを書いていたことがあるが、今回のは、日本の政治の分析としても、また政局に関する政治的言説としても、全く正しいと評することができる。このようなまっとうな言説が、テレビのワイドショーを独占している総裁選という名の猿芝居に対抗して、世の中でもっともっと聞かれるようになることを願ってやまない。



 最後にもう一言書いておきたい。私も、「来るべき総選挙では、政権担当能力を失った自民党を罰することが、最大のテーマとなるべきである」という山口氏の言い方に賛成であり、つまり来たるべき総選挙においては、民主党自民党を徹底的に攻撃するタイプの、言わばネガティヴキャンペーンを主として行なうべきだと考えているが、このような考え方には異論があるかもしれない。曰く、政策をはっきり打ち出すことのほうが重要だ、それによってこそ、民主党には政権担当能力があることを示すことができるのだから、等々。


 もちろん、マニフェスト(語の本来の意味における)は当然作成・発表するべきであり、それについて語るのは構わない。しかし、より一層問題であり、かつ明確となっているのは、2度にわたる政権放り出しによって、自民党には政権担当能力がないことがはっきりした、ということである。しかも、先日の本ブログの記事で書いたように、一国の宰相が一政党の都合のために政権を放り出すことが行なわれた。これこそ究極の党利党略である。こんな政党に政権を任せておくことができないことは火を見るよりも明らかである。


 さらに、民主党は野党なのだから、政府・与党が持ちうるデータとは比べ物にならないわずかなデータしか使うことができない(2005年の郵政選挙の際にも、よりによって選挙戦の最中に、野党に不利になるようなデータ開示が行なわれていたことが想起される)。であるから、野党である民主党は、我々野党には、政権を取ってみないとわからないことがある、とはっきり言うべきであり、そのように言ってよい。そしてさらに、我々が政権を取ったなら徹底的な情報公開を行ない、これまでの政治の闇の部分を明るみに出す、と言うべきである。これこそが今の政治に必要なことであり、そのような変化こそが、政権交代によって期待しうる最大の変化なのだから。


 ネガティヴキャンペーン、大いに結構。とにかく民主党は全力を挙げて、自民党を野に下らせてもらいたいと願う。