今の政治に何を求めるべきか


 本ブログでは既に2度、総裁選報道の馬鹿騒ぎに対する警鐘を発してきた。案の定、メディアでは自民党総裁選の動向が詳しく報じられており、この傾向は総裁選終了まで続くだろう。メディアでは新しい話題が絶えず注入されることが不可欠であり、そのような話題を提供してくれるものにメディアは飛びつくほかないからである。そして結局、メディアがそうなるのは、そのような話題を好む視聴者、すなわち国民が少なからずいるからである。本ブログの記事に対するブックマークの中に「メディアとそれに踊らされるB層をバカにすればいい」というコメントが見られるが、残念ながらその認識は甘いと言わざるをえない。他でもないそのB層こそが2005年の総選挙で小泉自民党の大勝利をもたらしたのだから。


 総裁選は茶番にすぎない。自明であるこのことを、しかしながら繰り返し語る必要がある。


 候補者について論評するなら(論評するまでもないのだが)、まず小池すなわち「マダム寿司」は、この低劣極まる表現を考えだし口にした時点で既に日本の恥である。ライス米国務長官はこれを聞いて、心の底からの軽蔑の念を感じたに相違ない。日本国を貶めるそんな輩に首相職を任せるわけにはいかない。次に麻生については、先日の「ナチス」発言に見られるように彼の失言癖は相変わらずである。そういう人間が首相になって海外で何か言いでもしようものならどうなるか。取り返しのつかないことになる。よって麻生もダメ。石原伸晃はもちろんダメである。なぜといって、首相が東京都知事の目下であってよいだろうか? 多少まともなのは唯一、与謝野馨だが、しかし与謝野氏には健康不安がある。彼に首相職の激務が務まらないことは自明である。よってこれもダメ。


 それにしても、どうしてこういうダメな候補しか出てこないのだろうか。


 しかしながら、メディアは総裁選報道によって埋め尽くされることになる。ではこれをどうやり過ごすべきか。これについては、白川勝彦氏が「永田町徒然草」のこの記事で適切なことを書いておられるので、以下一部引用しておく。

福田首相は自分のために、自民党のために、自公“合体”体制のために、辞任したのである。最初から福田首相の顔で解散・総選挙をやれないことなど分かり切っていたことだ。そんなことが分からないようでは政治を評論する資格などない。だから、今度の総裁選は、自民党の、自民党による、自民党のための総裁選なのである。


だから私は、この総裁選の意義や課題など語るつもりは一切ない。批判あるのみである。誰かがそのことを徹底的に言わない限り、国民は騙されることになる。失礼だが、わが国の有権者はこの手の騙しに弱いのである。
(中略)


(総裁選の)本当の見どころは、誰が総裁になるかなどということではなく、この局面で誰がどういう発言をし、誰がどのような行動をするかにある。いろいろな人物の本性と本質が現われてくる。本当に見るべき点は、このことなのである。国民の反応や行動もこの際ハッキリいって問われることになる。よく見ておいた方が好い。


 もう1つ、総裁選報道の馬鹿騒ぎに対しては、江田五月参議院議員(現在は議長)の次の言葉も対置しておきたい。これは2005年の9月の総選挙に向けた、衆院解散直後に語られた言葉だが、「小泉」への言及を別にすればそのまま現在でも全く妥当する、味わうべき言葉である。

自民党の党内バトルが盛んです。こういう小泉流が、結構受けているようです。現在の殺伐とした社会の風潮と、小泉流がぴったり合っているからなのでしょう。切れ味のよさと面白さは、さすがと思いますが、やくざの「仁義なき戦い」に似たやり方に、私は強い危惧を感じています。バーチャルの世界でのテンポの速い「切った張った」を、何の抵抗感もなく受け入れるような今の風潮を、政治が助長するので良いのでしょうか。政治は、選挙も含め、社会の質を高める役割を果たすものでありたいと思います。権力闘争にも、倫理観や道義観念は必要です。また有権者は、単なる政治ドラマの観客ではないはずです。


 結局のところ、小沢民主党が昨年来繰り返し言っているように、政治は生活なのである。これはドラマではない。選挙の結果は政策となって必ず我々に跳ね返ってくる。その結果が、年間3万人の自殺者(の高止まり)であり、消費者物価の上昇傾向であり、医療制度の問題であり、ずさんな年金制度であり、格差の拡大である。政治をドラマよろしく面白がって後で馬鹿を見るのは国民自身であるということを、我々はもっともっと身に沁みて思う必要がある。