総裁選報道で人気回復?――国民を愚弄するな


 昨夜の突然の福田首相辞任会見から一夜が明けて、今朝のテレビ番組などでは自民党の政治家が口を揃えて「国民の前で政策を戦わせる総裁選をやらなければならない」と言う。言うまでもなくその心は、それによってメディアを総裁選が独占できれば、自民党の人気が回復するだろうという計算・打算である。評論家連中の中にも、そうなるだろうとの見通しを示してそれで事足れりとしている輩がいる。新聞紙上でもインターネット上でも、そのような見方が散見される。


 馬鹿にするな、と言いたい。そんなことで、2度にわたる首相職放り出しが相殺されるほど、日本の政治は甘くないし、甘くあってはならない。


 今朝のテレビ番組の中でみのもんたは、自分が安倍晋三(言うまでもなく、廃業するべき政治家の筆頭格である)と夕食をともにしていたことを臆面もなく語っていた(お断りしておくが、これは私が自分で見ようとして見た番組ではなかった)。権力との距離をとることなど微塵も考えていないのでなければこのような愚挙はできないし、さらに、それを公然と口にして恥じないことなど、報道機関の一翼を担うに全くふさわしくない輩だと言わざるをえない。だが、極めて残念なことに、このような輩が今のメディアに露出しているのである。上記のような馬鹿げた報道が今後展開される可能性(懸念)は少なくない。


 しかしながら、総裁選で自民党の人気が浮揚するなどという見方は、仮にそのような方向でメディアが報道を行なおうとしても、断じて批判されなければならない。自民党の本質は、たかが一回の総裁選で変わるような代物では全くなく、その病根は深いからである。


 見方を示すこと自体が批判になっているという主張があるだろうか。しかし、そもそもそれを自民党批判と受け取ることができるような人は、そのようなことを他人に教えられる必要がない人である。むしろ、「総裁選で自民党の人気が浮揚する」ということが語られる際に念頭に置かれている人々、すなわち自民党支持へと鞍替えするそのような人々は、総裁選ごときで見方を変えることが誤りであるということをも教えられねば、自らの誤りに気づかないのではあるまいか。


 よって、今後行なわれるかもしれない、自民党総裁選をめぐるメディアの馬鹿騒ぎを批判する者は、例えば次のように語るべきだと私は思う。すなわち、総裁選の中で自民党は何人かの役者を立てて、面白おかしい、かつ(擬似)政策論争をも含んだ総裁選をやらかすだろうが、しかしそんなもので自民党が変わるわけでは全くない。自民党が変わったのはここ十数年では一度だけ、先の2005年の郵政選挙の前と後で変わった1回きりであり、そしてその変化の結果、自民党は悪くなったのである(自民党が悪くなったことについては、自民党の内外で様々な政治家が証言している)。朽木は彫るべからず(腐った木は彫り物には使えない)。自民党にはもはや自己改革は不可能であり、改革は、自民党がこれまでの自民党、すなわち政権維持を唯一の目的とする政党、でなくなるのでなければ、不可能である。だからこそ、総裁選などよりも総選挙のほうが遥かに重要であり、そして、自民党がいったん野に下ることこそが遥かに重要なのである、と。