理念の重要性――権力に近ければ近いほど


 ここでは、「メディア問題徹底討論」と題して放送されたマル激トーク・オン・ディマンド 第380回(2008年07月12日)のうちの「Part3 テレビニュースは本当に終わりませんか」の感想を記しておきたい(Part1及び2は長すぎるのでろくに見ていない)。


 一言で記すなら表題に書いたとおりである。例えば、公共性という言葉。公共性だの公共空間などという言葉が、さもわかったことであるかのように番組では語られていたが、これはそんなに自明なことなのか。私が思うに、公共性などという言葉は、単に言葉でしかない。つまりそれは理念であり、人間の頭の中にしか存在しないものである。しかし、では人間の頭の中にしか存在しないからどうでもよいのかと言えば、そんなことは断じてない。むしろそういう理念は、問題となる人間が権力に近い位置にいればいるほど重要になる。理念とはそういうものだと思う。


 言い換えるなら、今のテレビのていたらくの原因(の一つ)は、テレビ局の中にいる人間(つまり、後輩に対して先輩である人々)が公共性という言葉を語らなくなった、例えばそういうことにあるのではないか。理念は語られてこそ意味をもつ、なぜならそれは単なる言葉だから。今のテレビを本当に立て直したいのなら、そう思うテレビ局の人間は、今の十倍ないし百倍、公共性という言葉を語りかつ教える必要があるのではなかろうか。権力批判という言葉も同じであり、テレビ局の人間は、今の十倍ないし百倍、権力批判という言葉を語りかつ教える必要があると私は思う(「権力」は単なる言葉にとどまらない現実性を有するが、その権力を批判する「権力批判」という言葉それ自体は、やはり単なる言葉であり理念である)。もちろん、テレビ局に30年以上いて今までそういうことをやってこなかった連中に、このようなことを期待するのは全く無理・無意味なのだが。


 なぜ理念は、人が権力に近い位置にいればいるほど重要になるのか。答えは自明であって、理念なしに行使される権力は、ふつう自分(或いは自分にかかわる人々)の利益のために行使されるからであり、そしてそのような権力行使は、権力の濫用だと言わざるをえない事柄だからである。


 日本では理念の持つ力は欧米に比べて弱いかどうか。仮に弱いとして、その理由があるとすれば、(ありきたりに聞こえるかもしれないが)例えばフランスの人権宣言、或いはアメリカの独立宣言といった、その国の言わば建国精神(英語で言えばfounding spiritだろうか)とでも言うべきものがあって、フランスやアメリカではそこに理念が書き込まれているのに対して、日本にはそのようなものがないということが、やはり挙げられるべきなのだろう。日本の場合、戦後の一時期には日本国憲法がそのようなものとして機能したのかもしれないが、大変残念ながら、保守派やら右翼やらその他大勢が理想・理念としての日本国憲法を貶めるのに大変努力したことが奏功してしまい、その結果、例えば基本的人権という理念が今の日本で(30年前40年前と比べて)より正しく理解されているかどうかは甚だ疑わしい(この疑いの根拠となるのは、例えば、司法における「被害者の処罰感情」の重視などという、わけのわからない現象である)。また、労働者の権利に関する理解は、30年前40年前と比べて明らかに後退しているのではあるまいか。


 繰り返すが、理念というものは単なる言葉でしかない。しかし、単なる言葉だと言って理念を馬鹿にする者は、理念の欠如という事態に起因する報いを受けることになる。これがまさに今の日本人の状況なのではないだろうか。


 ついでに、浅薄な知識人が最近よく使っている「社会の厚み」という言葉についても一言感想を記しておきたい。私がいだいた疑問とは、果たして明治維新以来の日本で、国家に対抗するような厚みを持つ社会などというものが存在したのかどうか、というものである。もともと人権思想は舶来のものであり、確かに明治初期には民衆の間でも驚くような勢いで学習が行なわれたが、しかし結局残ったのは官製、つまり国家が上から与えた憲法に記された極めて不完全な人権規定だった。また、独自な存在としての社会を体現するものである道徳規範について言えば、戦前の日本人は基本的に国製の道徳たる教育勅語によって道徳を教わったのではなかったか(念のため、それが良いことだったなどと言っているのでは全くない)。そして、戦後の一時期には、上述したように日本国憲法が一種の理想・理念として機能したかもしれないが、そのような時期は過去のものとなった。最後に宗教について言えば、日本の仏教は(いつ頃からかは不勉強にして知らないが)葬式用宗教と化していて、精神的支柱たるべき活力を失っており、また、神社は、(例外もあるかもしれないが)そもそも道徳的な教えが説かれる場だとはふつう理解されていない。キリスト教は戦前でこそ士族出身の人々などに一定の反響を呼んだかもしれないが、戦後は伸び悩んでおり、ごく小さな少数派であり続けている。


 こうして見てくると、国家に対抗するような厚みを持つ社会などというものが果たして日本に存在したためしがあったかどうか、極めて疑問である。少なくともいったんは支配的な宗教(しかも、道徳的その他の活力を有した宗教)が存在した欧米と、そういうものがかつて存在しなかった日本とを比較しても、違いがあるのは当然である。「社会的包摂性」或いは「社会の厚み」などというものを振りかざす議論は、日本の歴史を踏まえていないという意味で暴論のたぐいなのではなかろうか。(なお、言うまでもなく、そのような日本の状況を肯定しているわけではもちろんないのだが。)


 最後に気になったことを一つ。金平氏のインタビューの最初のほうが一部編集されていたようである。収録したもの(特に音声)を基本的にそのまま流す(もちろん画像の切り替わりというような意味での編集はあるが)ビデオニュースの番組を見慣れている者にとっては違和感がぬぐえなかった。


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追記(7月18日)
 メディアに関する記事として面白いものを見つけたので、リンクを掲げておきたい。
【断 呉智英】メディアを真に受ける悲劇
 著者である呉氏の毒舌は健在なようで、大変結構な限り。