日米安保条約の究極的な意味或いは無意味


 田岡元帥を迎えて行なわれた<マル激トーク・オン・ディマンド第370回(2008年05月03日)思いやり予算、そろそろやめませんか>を見ての感想を書いておくことにするが、私にとって面白かったのは後半の32分30秒あたりから10分程度の議論だけだった。ただ、この部分の議論は非常に面白い。未だ解決のついていない問題が集中的に含まれているように思われるからである。


 その部分の議論をまず要約しておくと、直前の話の中で、北朝鮮・中国が、それぞれ軍事的には大したことはない国家だが、とはいえ核兵器保有している、ということとの関連で、恫喝のための武器としては核兵器と通常兵器では比較にならないということを田岡氏が指摘した後で、それを受けて(後半の32分30秒あたりから)神保氏が、とすると、日本は独力で北朝鮮・中国に対抗しようとするなら核武装を真剣に考えなければならないということになるが、しかし日本の核武装化はアメリカがこれを許さない、とするなら、日本の現状は実は最善なのではないか、と問題を投げかけた。しかし田岡氏は、そのような見方は冷戦時代的な見方であり時代遅れだ、と一蹴した。宮台氏も、時代遅れだとの批判を行なっているが、但しその場合の論拠は、(ベルリンの壁の崩壊より前の)1980年代に冷戦構造が事実上崩壊しつつあった頃に、アメリカが日本に対する態度を変えた(日本が対米依存症に陥るように日本を誘導した)、という点にあるようである。(論理がうまくつながっていないように思えるが、思うに宮台氏は、アメリカ依存を最善とする見方に対して否定的に反応してこういうことを言っているのだろう。)宮台氏のこの指摘を受けて田岡氏も、アメリカは日本の心理的属国化に成功した、と同調している。


 田岡氏は話を続けて――冷戦以降の時代における抑止力を話題にして、だろう――、経済的相互依存関係が相当程度抑止力たりうる、と指摘しており、(軍隊が出動する典型的な局面の一つである)領土争いについても、その原因は経済にあると述べている。そして、核廃絶は無理だが、国境の廃絶は進みつつある、と述べた。これに対して宮台氏は、経済のグローバル化に伴って、経済主体としての国家の重要性が低下しつつあるという認識は共有しつつも、しかし国家は、経済のグローバル化の主体(例えば多国籍企業や、華僑やインド人のネットワーク)にとっては、経済のルールづくりの局面などで、利用価値を失っていないのではないか、と異論を述べた。これに対して田岡氏は、ボーダーレスの時代において国境を守ることにどれほど意味があるのか、と反論した。これに対して宮台氏は、主権国家同士の交渉の際の象徴的な力(上で使った言葉で言えば、結局は「恫喝力」ということだろう)として軍隊はなお重要なのではないか、と反論した。これに対して田岡氏は、本来軍隊が守るものは国境・国土だが、今や守るべき重要なものはそれ以外のものになっているのではないか、と反論した。これに対して宮台氏は、国家の利用価値はなお失われていないのではないかという従前の主張を繰り返し、これに対して田岡氏は、「資本主義は帝国主義に転化せずにアナーキズムになった」と述べ、中国の警察が外国企業の活動を守るために中国人による暴動を弾圧するという例を挙げつつ、国家という枠組みの重要性の低下という従前の主張を繰り返した。


 以上が議論の要約であり、特に宮台氏と田岡氏の間の議論は一見噛み合っていないが、ともあれしかし、いろいろなことを考えさせる議論ではある。第1に、ここで「恫喝力」と呼んだものについてだが、田岡氏は、番組の中で思いやり予算を批判し、現状では米軍の軍港と化している横須賀や佐世保自衛隊の軍港(厳密に言えば自衛隊は軍隊ではないので「軍港」という言い方は適切ではないが、他に良い言い方が思い浮かばないので、「軍港」と呼んでおくことにする)とするべきだとまで言い、自主防衛の比重を強めるべきとの主張を展開しているが、しかし、北朝鮮や中国の核兵器に対する究極の反撃力となるべき核武装、すなわち日本の核武装化については、立場を明らかにしていない。この点については、田岡氏は著書『北朝鮮・中国はどれだけ恐いか』の中で、日本の重武装化が自らのもともとの立場であることを明らかにしているので、思うに、氏が(言わば重武装化の極致と言うべき)核武装化について立場を明らかにしないのは、日本の核武装化が現実的な話でないと氏が思っているからだろう。だとすると、「(アメリカの核の傘の下にいるという)日本の現状は実は最善なのではないか」という主張に対する田岡氏の批判は、いかなる点に存するのか。アメリカ依存をいつまでも続けても日本は安泰だという発想が誤っている、という点に存すると考えるほかはないようである。とするとここでは、一見するところとは異なり、田岡氏の主張は宮台氏の主張と重なってくるようである。


 次に、経済のグローバル化と、国民国家という枠組み(のもとにある軍隊)との関係をめぐる、田岡氏と宮台氏の一見噛み合っていない議論はどう理解するべきか。噛み合っていない直接の理由は、田岡氏が、軍事専門家として、軍隊の機能をあくまで現実的に国境・国土の防衛という点に認めているのに対して、宮台氏が「象徴的な力」としての軍隊という言い方をしているところに求められよう。この「象徴的な力」という言い方は上述の「恫喝力」に一見似ているが、恫喝力の場合の「恫喝」は、(田岡氏の頭の中での理解を推測するなら)あくまで軍事的恫喝ということだろうから、そのようなものである「恫喝力」と「象徴的な力」とは別物だと見るべきだろう。そして、例えば経済交渉の際に「象徴的な力」が効くかどうかについて言えば、二国間交渉では或いはそれが効く場面も全くないとは言えないかもしれないが、しかし、軍事力を背景にして交渉を行なうなどというのはよほどのことだと言わざるをえない。また、経済交渉でよく見られる多国間交渉の場では、一国の軍事力が、交渉をその国にとって有利に運ぶための恫喝力として機能することはまず考えられない。したがって、「象徴的な力」云々という宮台氏の議論は現実離れしていると評してよいだろう。


 しかし、そう評することは、国家の利用価値或いは存在意義がなおなくならないとする宮台氏の主張までをも否定することになるわけではない。なぜなら、田岡氏は国境の溶解の例として「中国の警察が外国企業の活動を守るために中国人による暴動を弾圧する」ケースを挙げているが、このような弾圧は、基本的人権(この場合には、企業側の財産権)を守る主体としての国家がちゃんと機能しているからこそ可能になっている、と言うことができるからである。基本的人権を守る主体としての国家の意義が近い将来に失われるとは考えにくく、少なくともその限りでは、国家は存在意義を有し続けるだろうと思われる。


 もう1点挙げるなら、田岡氏は経済的相互依存関係の深化が、近隣諸国からの攻撃に対する抑止力として重要だと論じていたが、このように論じる際に氏の頭にあるのは、EUのイメージではなかろうかと思われる。しかし、言うまでもなくEUは、単に経済統合を遂げているだけでなく、地域的安全保障の枠組みとも重なっている。つまり、経済的相互依存関係の深化は、地域的安全保障の枠組みを創設することと、無縁ではありえないのではないか。このあたりは、たぶん近未来において実現しそうにないためだろう、議論の話題とならなかったが、しかし原理的な問題としては存在するのではなかろうか。


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