人間としての感覚を疑わせる、死刑制度をめぐる鳩山法相の暴言


 福田内閣はろくでもないものを引きずってスタートしたと言えそうである。まず記事(日本経済新聞)の引用から始める。


鳩山法相「署名なしで死刑執行を」

 鳩山邦夫法相は25日の閣議後の記者会見で、死刑執行の現制度について「法相が絡まなくても、自動的に客観的に(死刑執行が)進むような方法を考えたらどうか。法相に責任をおっかぶせる形ではなくて」と述べ、法相の署名がなくても執行できるように制度を変更すべきだとの考えを示した。


 鳩山法相は「死刑を受けるべき人間は執行されないといけないが、(法相は)誰だって判子をついて死刑を執行したいと思わない」と発言。執行の順番について「ベルトコンベヤーって言ってはいけないが、乱数表か分からないが、客観性のある何かで事柄が自動的に進んでいけば、次は誰かという議論にならない」と述べた。


 現行の死刑執行は、刑事訴訟法で「法相の命令による」と規定。命令は恩赦の可能性など特別な場合を除いて判決確定から6カ月以内に出すことが原則となっているが、実際は執行までの期間は長期化している。杉浦正健元法相は「執行命令書にサインしない」として、在任中に執行しなかった。(14:47)


 鳩山法相のこの発言のどこが問題なのか。言うまでもないかもしれないが、これまでの警察の捜査の中には無実の人を罪したこと(いわゆる冤罪)が数多くあり、それは死刑判決を受けた人であっても例外ではない。たとえ裁判官であっても、人間の判断は間違うことがあるのである。そのことに対して少しでも恐れの念を有していれば、今回のこんな発言は出てきようがないはずである。


 つまり鳩山法相は、人間として当然持っているべき「人間の判断は間違うことがある」という基本的な洞察、及びそのことに対する恐れを、全く欠いていると言わざるをえない。ともすると法の支配は非人間的に見えるかもしれないが、法を作ったのは人間であり、またそれを運用するのも人間である。人間に関する基本的な洞察抜きにして法の支配はありえない、否、あってはならないのである。


 鳩山邦夫という人間の、人権感覚というよりむしろ端的に、人間としての感覚を疑わざるをえない。


 それにつけても、議員の世襲は政治から駆逐されなければならない(そう言えば、鳩山邦夫世襲議員だった)。