長崎市長への凶行−−テロに対峙するには

 改選を期して選挙戦の最中だった伊藤一長長崎市長暴力団構成員によって射殺された(記事はこちら)。断じて許されない凶行である。今世界ではテロばやりだが、本来こういうのこそがテロであり、社会に対する非道な挑戦として受け止められるべきものである。


 このような凶行に対してどのように対峙・対処すべきか。まず、当然ながら、徹底的な捜査が行なわれる必要がある。テロに対する対処法は、軍事攻撃ではなく、捜査なのである。具体的には、今回の実行犯がどこでどのようにして拳銃を入手したかを洗い出す必要がある。また、この記事によれば、「伊藤市長に対する恨みを書いた封書」3通が、実行犯からテレビ朝日宛てに送られていたとのこと。この文章を分析して、そもそもそのような文章が果たして今回の実行犯に書けるものだったか、もしそうでなければ誰が文章作成に手伝ったかを明らかにして、協力者を割り出すこともまた重要である。そしてもし、今回の凶行に何らかの組織的背景があることが判明したなら(そういう可能性は決して低くないだろう)、その組織にまでも捜査が及ぶのでなければならない。


 次に、より広い社会という場で、どのような対峙・対処がなされるべきか。このような凶行が決して許されないものであることを、様々な立場の人が声を上げて言う必要があろう。こういったことは既に行なわれているかもしれないが、さらにもっと、例えば1930年代の5・15事件をこの機会に改めて思い出すというようなことが行なわれてよいだろう。


 この関連でぜひとも指摘しなければならないことがある。それは、先の選挙で東京都知事に再選されてしまった石原慎太郎暴言録にある、「田中均というやつ、今度爆弾を仕掛けられて、あったり前の話だ」という言葉である。テロを是認するような発言が、公人から発せられるようなことは断じてあってはならないにもかかわらず、石原慎太郎はそのような暴言を吐き、しかも都知事の座にとどまることになってしまった。本当に許しがたいことである。公人であってテロを是認するような発言をする輩は、断じて許容してはならない。


 そして何より重要なことは、その昔凶弾に倒れた犬養首相が言ったとされるように、「話せばわかる」ということが民主主義社会の根本原則の一つであることを、より一層人々に周知させることだろう。話し合い、議論を尽くすことこそが民主主義社会の根本原則なのである。この観点から見ても、与党が議会での議論を軽視し、多数を頼んで法案の採決を強行する日本の政治の現状が、厳しく批判されなければならないことは明白だろう。