いわゆる「無党派層」について

 政治学者の山口二郎氏の最新のコラムで、いわゆる「無党派層」をめぐる問題が語られていた。先の都知事選挙でもこの問題がついてまわったこともあるので、ここで少し考えてみたく思う。



 第1に、まず真の意味での無党派、すなわち(極端に言えば)前回は政権党に投票したが、今回は野党に投票するという人、(さらに極端に言えば)前回は右翼に投票したが、今回は左翼に投票するという人、こういう人はいったいどれほどいるのだろうか。日本の状況に即して考えてみれば、政権党(自民党)と野党(民主党)を行ったり来たりするという投票行動、これはあるかもしれない。しかし、右翼と左翼を行ったり来たりするという投票行動、これは日本に限らず世界のどこでも、普通まず見られないのではあるまいか。何が言いたいかということだが、まず、いわゆる無党派層と言えども、自らの政治信条と全く反するような投票行動をするわけではない、つまり、全く白紙の無党派などというものは存在しないのではないか、と言いたいのである。


 第2に、これは投票行動に限らない話だが、いったい大人の人間であって、人からいろいろ言われて考えをコロコロ変えるような人間がどれほどいるだろうか。少なくとも、政治に多少関心をもっている人なら、そういう人間はまずいないのではないかと思う。


 この点に関してはもう少し考えるべき事情がある。というのは、自分の政治信条で投票先を決めるよりもむしろ、他人との人間関係を重視して投票先を決める(「いつもお世話になっているAさんから頼まれたから」等々)、こういう人は相当数いるのではないかと思われるからである(ただ、このような場合でも、自分の考えに全く合わない人に投票するというようなことは考えにくいが)。選挙期間に行なわれる様々な選挙運動の中で、或いはそもそも選挙期間前であれ、一般に選挙運動と呼ばれることの中で、最も有効な運動の形態とはこういうこと(知人への投票呼びかけ)ではないかと思われる。


 ただ、このような働きかけが有効であるためには、働きかけを受けた人がそもそも投票する、投票所へ行くということが、前提としてなければならない。(なお、言うまでもないかもしれないが、公明党の選挙がいつも実に当選確率の高い選挙となっているのは、創価学会員の投票行動について、この「投票所へ行くこと」までも監視することが可能となっているからなのだろう。どのように監視しているかは、私は不案内にして知らないが。)


 ところが、政治においていわゆる無党派層と呼ばれる人々とは、典型的には、選挙の時に投票に行ったり行かなかったりする人々なのではないだろうか。そのような人々の場合、(仮に他人から呼びかけがかかってくるような人であっても)呼びかけに応じて投票所に行くとは必ずしも限らないことになる。とすれば、そのような人々が投票所に行くには、(呼びかけといったこととは)別の何かがなければならないことになる。


 ここまでをまとめると、まず政治的な考え方の面で全く白紙の状態にある人は、無党派層と言えどもまずいないだろうと思われる。また、他人に言われて考えをコロコロ変えるような人も、これまたまずいないだろうと思われる。もちろん、人によっては政治的信条以外のこと(具体的には、例えば人間関係)を第一の判断基準として投票先を決める人もあるだろうが、ただ、こと無党派層に関して言えば、そのような人が他人からの働きかけを第一の判断基準として投票先を決めるというのは、少なくとも典型的な無党派層の行動様式(の記述)としては、当たっていないと思われる。他の何かが、無党派層の投票に当たっては重要な要素となっているのではないかと思われる。


 ここで、冒頭で言及した山口氏の議論を批判しておきたい。氏は

まず明らかなことは、無党派層は平和主義あるいはナショナリズムといった特定の主義について、中身を理解して共鳴しているわけではないということである。情報化が進んだ今日、東京の無党派層タカ派で、広島の無党派ハト派だなどということはあり得ない

と述べているが、これは何らかの実証的な根拠に基づいた発言なのだろうか。根拠があれば学者としてそれを示すべきだろうが、しかし、見たところ根拠があるようには見えない。とすれば、これは単なるデマだと言わざるをえないことになる。根拠なしに言っているのであれば、そのような発言は、学者として恥ずべきものではないかと思う。山口氏の発言はともかくとして、東京で石原慎太郎が勝ち、広島で秋葉忠利氏が勝つことは、それぞれの地域の人々の考え方と決して無縁でないだろう。つまり、東京ではタカ派的発言が比較的受け入れられやすく、これに対して広島では平和を尊重する発言が受け入れられやすいという、素地の違いがあるのだろうと思われる。



 話を本論に戻すと、無党派層の人々が投票するに当たって作用する「重要な要素」とは何か。このように考えてくると、その「何か」とは、つまるところ「面白さ」なのではないかと思えてくる。言うまでもなく、「面白さ」を基準に投票先を決めるような行動は批判されるべきだと私自身は考えるが、しかしすぐにそう言ってしまっては意味がない。ここで試みたいのは、とりあえずまずは無党派層の行動様式を、可能な限り内在的に理解することなのだから。


 ここで言う「面白さ」とは、より具体的にはどういうことだろうか。たぶんそれは、漫才や落語が面白いといったレベルの面白さとは違うだろう(無党派層と呼ばれる人々がそこまで軽薄だと考えるのは、当たっていないだろう)。思うに、問題となる面白さとは、「政治が変わりそうだ」というような面白さではないだろうか。例えば、小泉首相のもと2005年に自民党が大勝利したのは、小泉にやらせ(続け)れば政治が変わりそうだという無党派層が感じたからではないかと思われる。


 問題はここからである。「政治が変わりそうだという面白さ」に基づいて投票行動を行なうという場合、そのような人々は果たして主権者として投票していると言えるだろうか。「政治が変わりそうだから、面白そうだから投票する」ということは、裏を返せば、「政治が変わりそうにない、面白そうでない場合には投票しない」ということである(厳密に論理的に言えば、「逆は必ずしも真ならず」だから、こうはならないかもしれない・・・しかし一般的には、こう言って大過ないだろう)。ところが、民主党のキャッチフレーズではないが、まさに「政治は生活である」。面白さだけで割り切れない問題・課題も政治の場には多々存在する。主権者というのは本来、そういったすべての問題・課題について自ら判断し答えを出すべき立場にある存在である。その判断を、代議制・間接民主主義ということで或る政治家に任せるというのが、選挙の本来の意義である。政治が投げかけてくるすべての問題・課題に向き合うというのが主権者の本来のあり方ならば、少なくともすべての選挙の場合に、自らの判断を誰に委ねるかという決定を下すべきではなかろうか。無党派層の行動は、(譬える例を求めるならば)観客のそれに近いのではないかと思われるが、観客というあり方は、主権者というあり方におよそ似通っていないように思われる。


 無党派層を観客に譬える比喩に託してもう少し言うなら、観客は見たい時には見るが、見たくない時には見ない。同様に無党派層も、投票したい時には投票するが、投票したくない(しないでも良いと思う)時には投票しない。それだけでなく、観客は見たい時にだけ観客であり、そうでない時には観客でない。つまり観客の関心は一時的である。それと同様に無党派層も、政治に対する関心は持続的とは言えない。



 しかし残念ながら、以上のように言ってみても、そのような言葉が無党派層の人々に届くとは考えにくい(これが届くぐらいなら、日本の政治はとっくの昔に、政権交代を経験するなど、大きく変わっていただろう)。しかし、それでもこういうことはあえて言っておく必要がある。なぜなら、実は、無党派層の人々が自分たちの行動様式に対する批判を聞く機会は、実際的に見てほぼ全くないのではないかと思われるからである。なぜかと言えば、新聞にせよテレビにせよメディアは基本的には、自らの顧客である有権者に対して、耳の痛いことをあまり言わないからである。


 それだけでなく、今の世の中では、政治への関心が持続的になるのを拒む要素がある。具体的に言えば、特にテレビにおいて顕著だが、いわゆるニュース番組においては、短時間の間に次から次へと別の話題が報じられ、見る側はその短時間での切り替わりについていくことを絶えず(言わば)訓練される。その結果、一つの話題に粘り強くつきあう姿勢が失われていっているのではあるまいか。視聴率のことを考えれば、つねに新しい変わったものを提供し続けることこそが求められるだろうから、これは構造的な問題だと言ってよい。政治に関心を抱いてテレビを見続けると、かえって政治の特定の問題に対する持続的関心が損なわれていく(もちろん、見る側がしっかりしていれば、そうはならないかもしれないが)というのは、あながち大げさな話ではないのではあるまいか。


 有権者に対して耳の痛いことを言う、これは主要メディアには任せておけないことなのではないかと思われる。ならば、微力だとはいえ、せいぜい自分で書いていかねばならないのだろう。