戦場を描かない戦争映画

 映画評など書く柄ではないが、しかし、今GyaOでやっている映画<エンド・オブ・オール・ウォーズ>(このリンクも参照)は大変良かった(12月22日昼で終了)。以下、ネタバレになるが、まず粗筋を、次に感想を、書き留めておきたい。


 捕虜収容所で日本軍が、ジュネーヴ条約他を無視して捕虜を虐待する。これはありふれた話である。そこで敵意が醸成され、そのような中、捕虜のうちで軍隊の位の高い者が殺される。これもよくある話である。ただ、後の話との関連で言えば、その殺された高位者は、別の高位者たる少佐のことがきっかけで殺されたのである。死体はぼろ切れのように投げ捨てられる。


 そうこうするうちに泰緬鉄道の建設が計画され、捕虜が駆り出される。労働の光景。しかし、それはあまり強調されない。ただわかるのは、次第に捕虜たちが人間性を失っていくということである。規律を乱す者に対しては容赦なく鉄槌が下される。それをするのはとりわけ日本兵のイトウである。


 その中で、「学校」を始めようという話が起こる。主人公たるアーネストともう一人が教え、アーネストはギリシア哲学を、もう一人は文学と聖書の教え(「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」等々)を教える。


 しかし一度、彼らの「学校」が日本兵に見つかり、本が取り上げられる。日本軍を憎んでやまず、何とか脱走しようと計画している少佐が、彼らを裏切ったのである。なぜ少佐が裏切ったかというと、「学校」が始まって以降、そこに集う捕虜たちが日本軍に対して、より恭順になっていたからである。しかし彼らは単に恭順になっていたのではなかった。むしろ彼らは、人間性を回復しつつあったのである。後になって本は返還され、「学校」は再開される。


 日本兵たちが慰安婦を抱こうとして現地の女たちを家の中に招じ入れる光景も描かれているが、それが、日本兵の下劣さ・野蛮さを強調する目的で出てきたとは思わない。ただ、ここでイトウが加わらずに家の外で刀を振っていたのは、いかにもという感じで少々興ざめだった。彼が必ず禁欲的でなければならない理由はなかったように思う。しかしもちろん、必ず女を抱かなければならないという理由もまたない・・・例えば、性的不能ということもありうるだろうから。


 そうこうして、泰緬鉄道は予定より6ヶ月(4ヶ月?)早く完成した(つまりそれだけ捕虜が酷使されたということ)。しかし、既に書いたように、捕虜による労働の光景は強調されない。むしろその後に来た「卒業式」の方が重要だった。


 「学校」の卒業式には日本兵らも招かれてちょっとした宴会になり、当然警備は手薄になる。そこを狙って、少佐らのグループが脱走を図る。もちろん脱走は失敗し、少佐を始めとするグループの全員は銃殺刑に処せられるはずだった。が、なぜか少佐だけは命拾いをし、身代わりに別の者(文学と聖書を教えていた男)が死ぬ。


 戦況は変化し、連合軍の飛行機が上空を飛ぶ回数が多くなる。或る日、連合軍の編隊が飛んでくる。解放の知らせかと収容所は色めきたつが、次の瞬間、収容所は集中爆撃に遭う。爆撃で千切られた自分の足を眼前にして、我を失いそうになる捕虜。爆撃を逃れながら、机の下で必死に連絡をとろうとする収容所長。逃げ惑って右往左往する捕虜。このシーンによって、この映画の主旨が日本軍憎しという低次元のものでないことがわかる。


 ついに終戦。解放を告げるビラが空から降ってくる。主人公のアーネストが収容所の裏手へ行くと、そこでは少佐が、イトウをしばいている。アーネストはやめさせようとして、少佐によって泥の中に顔をうずめられる。後悔する少佐。その時、隙を見てイトウが刀を手にし、二人の前で切腹して勝手に死んでいく。以後のシーンは蛇足と言ってよいが、但し、英国の生き残り兵士が何かの記念行事で町を行進する光景があったことは、付け加えておかなければならない。



 以上が粗筋だが、2つの生き方が描かれていると思った。1つは「愛敵」であり、この映画の原作者で後にチャプレンとなったというアーネスト・ゴードンが一番言いたかったのは、この点なのだろう。が、これについては、ここで云々するつもりはない。むしろ印象的だったのは、もう1つの生き方、すなわち特に日本兵イトウにおいて提示されていた生き方である。それは、他人のであれ自分のであれ、とにかく命を徹底的に軽視する生き方であり、そういうものとして首尾一貫している。これを「美学」或いは「美しい」などという言葉で形容するつもりは断じて全くない。しかし、首尾一貫していることは否めない。結局のところ、今に至るまで日本人が長時間の超過労働を無給で行なわせられるのも、命を軽視するこのような生き方に通じるものがあるのではなかろうか。昔も今も日本人は、人間を、或いは人間の尊厳を、実に軽視している。


 もう一人注目に値するのは少佐である。少佐が敵たる日本兵を憎んでやまないのは、職業軍人の鑑なのかもしれない。しかし彼は、この映画の最初から、自分のせいで他人を死に追いやり、果ては脱走の失敗で、本来はその責任者として真っ先に処断されて仕方のない人間だった。しかも彼は、身代わりの死を得ておめおめと生き延び、そして戦争が終わった後なお、イトウをしばく。憎しみの権化と言ってよい存在だが、逆説的に彼は、憎しみという感情の軽薄さ・薄っぺらさを体現しているように思えた。


 日本では劇場未公開映画だとのこと。見る機会を得られたのは実に良かった。