インターネットが作り出す社会構造

 講談社のWebサイトでMouRaというのがあり、などと言わなくとも多くの人は知っているのだろうが、このMouRaを使って、インターネット上でどういう出版事業が営利的に成り立つかという点に関していろいろな実験が試みられているようである。社運を賭けた試みなのかもしれない。


 その中で<MouRa|宮崎学、直言|宮崎学責任編集「直言」>が今年いっぱいで打ち切りとなることが決まったようである。
(そう考える根拠は、コラム<私が本当に言いたかったことは 〜ロックは何故「文化」になったのか〜>の冒頭の言葉である。なお、このコラムを引用していることからわかるように、本記事「インターネットが作り出す社会構造」はバックデートで書いているのである・・・もちろん、誰もそんなこと気にするまいが。)
「直言」には政治・経済・社会に関して興味深いコラムが多数掲載・連載されていただけに、大変残念である。他に打ち切りで目についているものはないので、或いはこれが最初の失敗実験ということになるのかもしれない。とすれば、政治・経済の良質のコラムはなかなか採算が取れないという結論が出てしまうのかもしれない。


 同じMouRaの中でも、<MouRa|りてる(文芸:小説・エッセイ・コラム)>というページは、相も変わらず続いているように見える。といっても、私がこのページから見るのは、清水義範の雑学話と立川談志の放言ぐらいなので、細かいところは変わっているのかもしれないが。


 この実験で注目すべきは、それがインターネットで行なわれている実験であるということにかかわるが、それぞれの欄(「直言」であれ「りてる」であれ)の著者たちのそれぞれについて、その記事へのアクセス数が手に取るようにわかってしまうという点だろう。出版社(Webサイト主宰者)の側は、著者たちを日常的に評価する材料を手に入れることができてしまうというわけである。そしてMouRaの中には、この点を露骨に前面に押し出した欄すらある。例えば<MouRa|講談社、yomone|yomone!(ヨモーネ!)>がそれである。このページの下の方にある「連載終了ブログ」とは、想像するに、アクセス数が少ないために連載打ち切りに至ったもの、つまり死屍累々たる墓標群を意味するのではないだろうか。


 ところで、アクセス数が広告と連動すると何が起こるか。言うまでもなく、民放テレビで起こっているのと本質的に同種の現象が起こることになる。つまり、人気(視聴率=アクセス数)を求めて番組・記事づくりが行なわれるようになる。これは民主主義的だと言えるだろうか。そうではなく、これは商業主義的なのである。ここで、民主主義と商業主義の違いは、そこに金銭が介在するか否かという点にある。


 「しかし、政治家もまた人気商売ではないか」という反論があるだろうか。政治家は人気商売で良いという考え方は、基本的に間違いだと私は考える。なぜかというと、確かに民主主義においても商業主義においても、個々人の意向・好み・考えが顧慮されるわけだが、しかし商業主義は金持ち(すなわち札びら)の前には平伏する。これに対して民主主義は、金持ちと貧乏人の間に差別を設けない(設けてはならない)というのがその根本原則の一つである。


 こと娯楽に関する分野で商業主義が支配的になるのはまだ許容してよいかもしれない。しかし、言論にかかわる分野で商業主義が優勢になってくるとこれは非常に問題である。今言ったような事情で、民主主義が商業主義によって損なわれる危険性があるからである。否、現に今の日本では、民主主義が商業主義によって損なわれていると言ってよいのではなかろうか。すなわち、同じ労働をする労働者を、一方を正規雇用で雇い、他方を非正規雇用で雇うなどということが許容されているのは、商業主義による民主主義的価値の侵食の現れなのではなかろうか。


 インターネットに関する雑感から始めたつもりが、大問題へと発展してしまった。しかし、これを「大風呂敷」とはあえて書くまい。