教育基本法改正問題をめぐる数々の不見識(1)読売新聞の社説(11月16日づけ)

 繰り返しになるが、今回の政府改正案の採決強行についてはまず、それが安倍首相自身の主導によるものであることが、くれぐれも銘記されなければならない。民主党江田五月議員の「[http://www.eda-jp.com/satsuki/comment/index.html:title=ショートコメント」の2006/11/16の記事には次のようにある。

子どもや学校長の自殺が続く中、いじめもやらせも未履修も審議を深めないまま、衆議院本会議で教育基本法改正案が与党単独で強行可決した。安倍首相が最重要法案と位置づけ、17日からAPECのためベトナムに行くので、参議院の審議を考えれば、今日しかないというのだ。国家100年の計で、60年ぶりの改正にしては、国民の願いよりも安倍首相の都合を優先する審議日程は、動機が不純すぎる。

安倍は自分を何様だと思っているのか。彼は世襲議員だから、恐らく自分を何かの特権階級でもあるかのごとくに思っているのではなかろうか。


 日本の政治の癌の一つが、安倍に代表される世襲議員の多さにあることを、最近つくづく痛感させられている。世襲議員とは、政治における言わば縁故採用である。また、さまざまなレベルの役所でも日本では縁故採用が幅を利かせているらしく、結局それが、日本の行政を腐らせている元凶の一つであるように私には思われる。議員の世襲の禁止(具体的には、同一都道府県からの立候補禁止というのが合理的だろう)、役所における縁故採用の禁止(こちらについては具体案は未だ思いついていないが、採用における透明性の確保と、親が務めている場合に子どもの就職を禁じるとかいった措置が最低限必要だろう)といったことが政治課題として語られる必要はますます大きいと思われる。民主主義の精神を徹底させるためには、少なくともこの程度のことはやる必要があろう。


 ともあれ、驕れる安倍の驕れる所業が教育基本法の政府改正案の採決強行である。驕れる者は久しからず、必ずや安倍には報いを刈り取ってもらわなければならない。教育基本法の問題は今後も引き続き取り上げていかなければなるまい。


 ということで、教育基本法改正問題をめぐって目についた不見識を取り上げ、何が問題かを考えることにしたい。まずは11月16日づけの読売新聞社説(http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20061115ig90.htm)を取り上げたい(この社説はhttp://www.stop-ner.jp/0611zenkoku-shasetsu.htmlというページでも見ることができる)。

 [「教育」衆院採決]「野党の反対理由はこじつけだ」

 「やらせ質問」も「いじめ自殺」も、それを採決反対の理由に挙げるのは、こじつけが過ぎるのではないか。
 教育基本法改正案は、衆院特別委員会で採決が行われ、賛成多数で可決した。きょう衆院を通過し、参院に送付される運びだ。
 野党は採決に反対し、委員会を欠席した。ボイコットの理由について、教育改革タウンミーティングでのやらせ質問の実態解明が先決だと主張している。
 政府は「タウンミーティングなどで、各般の意見を踏まえた上で法案を提出した」と繰り返してきた。これを根拠に、改正案はやらせ質問を前提に作られた欠陥法案だ、という論法である。
 やらせ質問は議論の活性化が目的だったと政府は釈明するが、これはやはり行き過ぎがあったと言わざるを得ない。
 だが、だから改正案にも問題があると言うのは論理の飛躍だ。政府も「各般の意見」として教育改革国民会議中央教育審議会などの議論も挙げている。タウンミーティングだけに依拠して法案を作ったと決めつけるのは無理がある。
 民主党は、頻発するいじめ自殺や高校の未履修問題も「教育基本法改正案の中身にかかわる問題だ」として、その徹底審議が採決より先決だとも主張する。
 民主党が国会に提出している対案は、愛国心や公共心の育成を掲げ、家庭教育の条文を設けている。政府案と本質的な差はない。むしろ愛国心の表現は「民主党案が優れている」と評価する声が自民党内にさえあったほどだ。
 法案の中身が似通うのは、子どもの規範意識を高め、家庭の役割を重視することが、いじめなど学校現場が抱える課題の改善にも資する、との思いを共有するからだろう。民主党が、いじめ自殺などを「改正案の中身にかかわる」と本気で思うなら、与党に法案修正の協議を持ちかけるのが筋だ。
 それなのに、民主党は、改正絶対反対の共産、社民両党と一緒に「採決阻止」を叫んでいる。これでは、多くの国民が心を痛めるいじめ自殺まで、採決先延ばしの材料にしていると言われないか。
 衆院特別委の審議はすでに100時間を超える。それでも審議が不十分と思うなら、速やかに参院で審議のテーブルにつけばよい。だが、野党は参院特別委の設置に反対し、委員の推薦を拒む形で審議入りを阻止する構えだ。
 審議は尽くされていないと言いながら審議の邪魔をする。こんな相矛盾した態度こそ、「今まで言ってきたことは採決阻止の方便でした」と自ら認めているようなものである。
(2006年11月16日1時48分 読売新聞)

 皮肉を込めて言えば、この社説で実に「感銘深い」のは、教育の憲法と称される教育基本法が改正されることとなり、その改正案が可決されたというのに、その改正案の内容にこの社説がほとんど全く触れていない点である(わずかに、民主党の対案に触れた後で「政府案と本質的な差はない」と書いているだけである)。読売新聞が教育基本法の政府改正案について、これまでの社説の中でどのような高邁な見解を披瀝したか、ましてや政府案を持ち上げるおべんちゃらを言ったかどうか、私はつゆ知らないが、いずれにせよ教育基本法改正との関連で記念すべきこのような日に、言いがかりに終始したこういう社説を発表できるとは、読売新聞は実に立派な見識をもっていると言わざるをえない。


 ところで、読売新聞は特に民主党が気に入らないようで、民主党を強く批判している。民主党案は政府案と似た内容じゃないか、それなのに民主党は審議の引き延ばしを行なっている、云々。


 政治の素人ならいざ知らず、読売新聞ともあろう大新聞なら、今の与党と野党の議席数の差がいかほどか、野党の法案が可決される見込みがどれほどあるか、可決される見込みの全くない法案が提出されることが審議引き延ばし以外のどういう意味・効果を有しうるか、ぐらいのことはわかっていてよさそうなものである。読売新聞の論説委員は政治のイロハもわかりません、と言っているようなものである。


 民主党案に批判するべき点があるとすれば、愛国心を打ち出すなど、政府案と似た文言をわかりにくい仕方で入れた点だろう。この際、もっとパロディー精神に徹して、「国民の祝日にはすべての道路の信号の上に国旗を立てること」という規定ぐらい入れた方が良かったのかもしれない(もちろん冗談です)。


 とはいえ社説が、民主党案は「愛国心や公共心の育成を掲げ」ており「政府案と本質的な差はない」、と述べているのは、不勉強丸出しだと言わざるをえない。すなわち、文科省のWebサイト内で現行教育基本法の解説を行なっているページ(http://www.mext.go.jp/b_menu/kihon/about/004/a004_00.htm)を見ると、次のように書いてある。

(参考1)前文の法的性格
・法令の各本条の前に置かれ、その法令の制定の趣旨、目的、基本原則を述べた文章を「前文」といい、法令制定の理念を強調して宣明する必要がある場合に置かれることが多い。
・前文は、具体的な法規を定めたものではなく、その意味で、前文の内容から直接法的効果が生ずるものではないが、各本条とともにその法令の一部を構成するものであり、各条項の解釈の基準を示す意義・効力を有する。

 ここにあるように、「前文の内容から直接法的効果が生ずるものではない」。そして民主党案では、「日本を愛する」という文言は前文にあるのである。これに対して政府案では、「わが国を愛する」とやらは、「教育の目標」とやらを定めた第2条というれっきとした条文の中に書き込まれており、そして、既に書いたように、その「教育の目標」は政府案第6条第2項によれば「体系的」「組織的」に実現が図られるのである。民主党案と政府案とでは、かくも話が違うのである。


 また、敬服すべき我が読売新聞社説は「衆院特別委の審議はすでに100時間を超える」とも言っているが、これもまた世迷い言である。100時間が過ぎても、法案提出の理由たるべき立法事実の説明がろくに行なわれていないことにこそ注目するべきである。審議について書きたければ、「100時間も審議して、いったい委員会は何をやっていたのか?」と書くのでなければならないはずである。


 ついでに言えば、(もちろん私の常識も当然そう考えるのだが)法案の審議が十分かどうかは、何よりもまず法案の検討がきちんと行なわれたか、つまり逐条審査が行なわれたかどうかで判断されるべきだろう。これは私だけの意見ではないのであって、例えば民主党参議院議員桜井充氏が次のように書いている。
http://blog.mag2.com/m/log/0000041719/107929568.html

 与党は、審議時間は100時間を越えたから十分であると主張し、野党は不十分であり、徹底審議を求めている。どちらの言い分が正しいのだろうか。そして、徹底審議とはどのぐらい審議すれば十分ということになるのだろうか。
 私は、逐条審査と言って、法案の一文一文を審議し、法案の内容精査が終わった時点で、審議を尽くしたというのだろうと思う。法律の内容によって、条文の数は異なる。しかも関連法案もある。これらの法案一つ一つを審議して、はじめて審議を尽くしたということになるのではないだろうか。つまり、審議時間そのものが、十分な審議の目安になるわけではないということだ。


 読売社説はさらに、やらせ質問、いじめ自殺、高校の未履修問題など、今回の国会にあたかも合わせたかのように噴出してきた問題について徹底審議を民主党が要求したことを、民主党が審議引き延ばしを目的として行なった、ためにする要求だと批判している。しかしこれについてはまず、今国会で教育に関する問題を議論する場として、この特別委員会よりも適切な場が他にあっただろうか、読売の論説委員はよく考えてみよと言わざるをえない。


 そしてともあれ、それら問題は委員会の審議の中で一応問題にはされた。だから、それらをめぐる議論は会議録に記されているのである。しかし、後になってこの会議録を見る人は、読み進めるうちに奇妙な事態に出くわすだろう。というのも、それら問題に関する議論が尻切れトンボになり、また法案自体に関する議論も上述のように中途半端なままで、いきなり審議が野党欠席のもとで終結し、与党のみによる採決が行なわれておしまいということになるからである。理念法をめぐる議論で、このような会議録しか残せない今の政治家、特に与党の政治家はこれを恥じないでいてよかろうか。末代までの恥であることを、彼らは認識させられる必要があろう。そしてもちろん、読売新聞の論説委員も。