「護憲」「改憲」論議を超えるための方法

 9月30日づけの日録で「なぜ「ナショナリズム」に対して警戒的でなければならないか」と題して、ナショナリズムを顕揚する思考様式(ないしはむしろ、そこに見られる思考停止)の危険さについて述べ、より具体的に何が重要な価値なのかという点にこそ注目すべきであり、そのような価値をこそ称揚するべきだと論じたが、これに対して、私のような考えは今の時代では支持されないだろうというご指摘があった。


 確かに今の世の中では、人々がムードに乗って、或いは乗せられて、行動することが少なくないように見える。しかし、だからと言って、考えるのをやめるべきかと言えば、もちろんそうはならない。何より重要なのは、一人一人がムードに流されないことであり、そのためには、一人一人が納得した上で行動することが必要である。重要なのは、考えて納得することなのである。そして思うが、ムードに流される大勢よりも、納得してムードに流されずに行動する少数の方が、長期的には実は世の中を変える力を持っているのではあるまいか。私はそうだと信じたいし、仮にそうでなくとも、納得して行動することを放棄することは即ムードに流されることを肯定することであり、そうなってはならない以上、考えて納得することの重要性(を主張する)という看板を下ろすわけにはいかないのである。




 ところで、ムードに流されることの危険性は「護憲」「改憲論議の中にも見受けられるように思われる。私見を述べる前に、まず憲法問題に関する私自身の立場を明確にしておくと、私は改憲を必ずしも否定しない。しかし、もし憲法を改正するなら、それは現憲法を生かし発展させるための改憲でなければならないと考えている。そうでない改憲をするぐらいなら、現行憲法のままの方がよほど良いと思う。


 ところが、今の改憲論議の中には、押しつけ憲法ができてから60年にもなるのに自分の手で憲法が作れないのはおかしい、といった点からする改憲の主張が例えばある。憲法改正が行なえる、しかも何度も行なえるようになることが民主主義の成熟の現れだという考えは、全く理解できないわけではない。しかし、そういうことが問題なしに言えるのは、憲法の根底を成す価値観が広く共有され、つまり憲法の基盤が安定している場合ではないかと思われる。今の日本がそういう状況にないことは明らかである。よって、改憲に慣れるための改憲といった主張は、今の日本の状況にはそぐわない。


 改憲が必要だという主張(その場合当然、改憲の暁に憲法がどうなるかといった点についてのイメージは、論者によって千差万別である)に比べると、護憲が重要だという主張は、既に存在する、内容のはっきりした現行憲法を基にする主張であるだけに、その内容は改憲の主張よりも遥かにわかりやすい。しかし、現行憲法を基本的に支持する者であっても、その中の一部分(例えば、象徴天皇制を定めた部分)に対しては抵抗を感じるといったことは十分ありうるのである。また、中央と地方の関係を見直す観点から見て現行憲法には問題点があるという主張もあり、相当の説得力を有すると思われるが、このようなそれ自体まっとうな主張が、護憲の旗のもとに一蹴されるという問題点が、護憲の主張の場合にはついてまわることになる。護憲の主張が硬直的との印象を与える所以である。


 こう考えてくると、護憲にせよ改憲にせよ、本当に尊重すべき、守るべき価値は何なのかという点を明確にしていないがために、まともな議論が成立せずにいるのではないかと思えてくる。推進すべきは、具体的な価値(すなわち、言論の自由、思想の自由、生存権等々といった価値)を正面に据えた議論なのだろう。ただ、そのような議論に対して、特に護憲派が躊躇するのはよく理解できるということも、ここで付け加えておきたい。なぜ護憲派が躊躇するかと言えば、思うに、尊重されるべき価値が論じられる中で、一つでも「今の憲法の規定では不十分だ」というものが出てくれば、それは−−現在の言論状況では−−改憲を推進するための好材料となり、つまり改憲派を利することになる、そして改憲ということになると、議論が暴走してそのほかにどのようなものが新憲法に付け加わることになるか、わかったものではないからである。このような懸念は十分理解できる。だから、憲法論議のあり方を変える工夫が必要になる。ではどのようにすればよいか。


 もし改憲を行なうのであれば、まず、日本国が尊重し守るべき価値をまとめて掲げる文章、すなわち基本権憲章とでも言うべきものを最初に定めるべきだと私は考える。したがって当然、憲法改正の是非をめぐる論議ではまず、何が日本国において(或いはむしろ、日本国によって)尊重されるべき、守られるべき価値なのかが論じられるべきである。そして憲法では、基本権に関する部分は基本権憲章を引き合いに出すこととし、それ以外のこと、すなわち三権のあり方及びそれら相互の関係を定めるようにするべきだと思う。当然ながら、このような意味での憲法は、基本権憲章が定まった後に初めて、論議の対象となることになる。


 基本権憲章と憲法を分けるというやり方は既にEUにおいて見られるところであり、基本的人権の根本的・恒久的重要性と、これに対して、憲法の定める制度の改変の必要性が個別的・逐次的に生じることとに鑑みれば、国のあり方を規定するための方法はこのような二本立てで行なうことが合理的だと思われる。しかも、まず先に価値の問題を論じるわけだから、憲法改正によって現行憲法の中の重要な価値が十把ひとからげ的な形で吹っ飛ばされるというような懸念も解消できるはずである。現行憲法が守るべきとする価値を本当に尊重したいのであれば、護憲論はこのような二本立て憲法論へと発展的に解消されるべきなのではないだろうか。




 以上の私の主張は、ナショナリズムの顕揚という形の議論に対する私の警戒感と軌を一にしているはずである。