なぜ「ナショナリズム」に対して警戒的でなければならないか

 ビデオニュース・ドットコムの<マル激トーク・オン・ディマンド>(第287回)の中で、宮台氏がまたもや、民主党ナショナリズムを自らの主張の中で掲げるべきだと主張していた。つまり、9月24日の日録で書いたように、日本の政治家はナショナリストでなければならないという主張である。今回もまた、この主張には胡散臭さを感じた。そこで、この点について少し考えてみたい。


 宮台氏がこういうことを言うのは、特に若者の中にある、日本という国に対する素朴な誇りとでも言うべきものを氏が念頭に置いて、そういった若者をどうすれば「動員」できるかということを考えてのことなのだろうと思われるが、動員という点については後で触れることにする。ここでまず問題にすべきは、例えば日本という国に対するそのような素朴な誇りとでも言うべきものを、ナショナリズムという言葉で掬い上げてそのまま肯定するのが果たしてよいかどうかという点である。私は、そのようなことをすべきではないと考える。なぜなら、国というものはそれ自体では器ないし枠組みにすぎず、その中に盛り込まれるもの(価値)が一義的でないからである。誇りとするべきは、例えばこの国の憲法が保障している言論の自由、思想の自由等の基本的人権、つまりそのような価値ではないだろうか。そういう価値が基本的人権として保障されている(はずの)国だからこそ、日本という国は誇るに値するのであって、さらにより正確に言えば、そのような価値が基本的人権として保障されている限りにおいて、日本という国は誇るに値するのである。そのような価値が保障されなくなってしまえば、日本という国は誇るに値しない。であるから、誇るべきは日本という国ではなく、掲げるべきはナショナリズムではないのである。


 例えば日本という国は現在、言論の自由が十分に保障されている国だろうか。この点に関して言えば、例えば新聞の投書欄で、会社員が投稿するのを見たことはめったにない。昔からそうだが、最近は特に顕著ではないだろうか。なぜ、勤め人は自由にものを言えないのか。これは決して自明なことではないということを我々は考える必要があるように思う。要するに、日本では言論の自由が十分に保障されているとは必ずしも言えないのではないか。また同様に、日本という国は思想の自由が十分に保障されている国だろうか。ビラ配りが、ビラの内容によって警察の取り締まりの対象になるような現状を思うと、日本では思想の自由が十分に保障されているとは必ずしも言えないのではないか。


 上で書いた、若者の感じる素朴な誇りは、必ずしも基本的人権にかかわるものではなく、例えば日本の文化(のありよう)にかかわるものなのかもしれない。そのような誇りを否定するつもりはもとよりないが、しかしそういった日本の文化といったものもまた、ナショナリズムという言葉で掬うべき内容ではないだろう。そして、誇りの対象を正確・適切な言葉で表現すること−−そして、それが誇りの対象である以上、表現された言葉は価値判断を含む言葉、言い換えれば価値表現となるはずである−−、これはまさに学者の課題ではないだろうか。


 以上述べてきたことを別の言い方で言えば、次のようになるだろうか。すなわち、ナショナリズムの顕揚ということの中には、−−国というものがそれ自体一義的な価値を表すものでないゆえに−−思考停止が含まれる。思考停止は権力者に、つけ込む絶好の隙を与える。ゆえに、ナショナリズムの顕揚は望ましくない。


 最後に、上でペンディングにした「動員」について。選挙が近づいた時に政党がどうやって人々の支持を集めるかということで「動員」を考えるのならわかるが、ビデオニュース・ドットコムの番組がそのような動員を考える必要はないのではないか。正しい知識・理解を与えることに注力するべきであり、下手に「動員」(宮台氏は「フック」などという言葉でこれを表現していたが)を考えることは、むしろ見ている人間を馬鹿扱いする或いは挑発することであり、そういうこと(「他人を馬鹿扱いすること」或いは「他人を挑発すること」)をする側の見識がむしろ問われると言えよう。小手先の策を弄するべきではない。