メディア不信の根拠

 インターネット上ではかねてから既存メディアに対する不信が声高に言われているように思われる。私自身はそういう立場に必ずしも与するわけではない。情報を見る場が紙面上からインターネット上に変わっても、信頼に値する(少なくとも、信頼に値するととりあえず推定してよい)情報は、基本的に既存のメディアがもたらしている。その意味では、既存メディアの存在意義がないなどという言い方には賛成できない。


 しかし最近になって(というのは遅すぎるのかもしれないが)、既存メディアに対する不信が語られるのには相当の根拠があるのではないかと思うようになった。例えば次の記事である。
「架空支払い関与のプロデューサーを懲戒解雇 テレビ朝日
http://www.asahi.com/national/update/0928/TKY200609280362.html
ここに見られるのは、制作会社の弱い立場につけ込んで、接待を繰り返し受け、またおねだりして自分に外車を買ってもらったりしたという、薄汚いことこの上ない番組プロデューサーの有様である。しかも、飲食接待には「部下のプロデューサーや社員が出席していた」(ここで言う社員とは、テレビ朝日社員のことだろう)とあるから、テレビ朝日という会社ではこういうことは常態と化していたのではあるまいか。(ところでなぜ、朝日新聞はこのプロデューサーの名前を実名で報道しないのだろうか。実名報道を続けるのなら、こういう輩こそ社会的制裁の対象となるべきであり、実名で報じられるべきである。)想像するに、この話はテレビ朝日に限られたことではないのではないだろうか。


 日本社会全体には階級制度はないが、どうもテレビ業界では明らかに一種の階級制度が存在し、その頂点に既存メディアの社員が居座っているように見える。メディアというものはそもそも社会の悪を暴くべき存在だったはずである。それがこのように悪の権化となり果ててしまっては、もはやメディアに期待できないと人が思ったとしても、そのことは少しも不思議でない。


 新聞社についても同様のことが言える。インターネット上で時々Webサイト編集の求人案内などが出て、それを目にすることがあるが、その賃金の安さといったら話にならない。新聞記者の高給ぶりはつとに有名だが、こういう求人で雇われる人と比べて何倍も高い賃金に値する労働を新聞記者は本当にやっていると言えるのだろうか。きわめて疑問である。


 8月ごろに、企業の偽装請負の話題がひとしきり紙面をにぎわせ、その後、待っていたかのように、槍玉に上がった企業の「改善策」が報道された。言うまでもなく、その改善策たるや、単なる気休め程度の対策であり、事態の根本的な改善には何らなっていない。しかもそもそも、非正規雇用を大々的に使うことによって今の日本の企業の好業績が維持されているのだということは、もはや公然の秘密である。それを問題にせずに、企業と手打ちでもしたかのごとき報道でお茶を濁すとは何事かと、今思い返しても腹立たしさは収まらない。結局、新聞記者たちが、自分たちが痛みを感じる立場にないがゆえに、報道の刀の切っ先が全く鈍りきってしまうことになっているのだろうと思われる。ここにもメディア不信の根拠がある。


 言うまでもなく、社会の悪を暴き不正を正すのに、本来最も尽力するべきは政治である。しかしその政治でも、二世三世議員がごろごろいる。言うまでもなく、二世三世議員は、出馬する本人によりも担ぎ出す側の方に、より大きな問題が存在する、そういう現象だが、しかしながら二世三世議員の中には自分を特権階級と勘違いしている輩も少なくないようである。このほど首相になってしまった安倍などもその一人ではないかと思われる。


 「日本はなぜこういう社会になってしまったのか」−−もちろん、こういう言い方は正しくない。民主主義の世の中である以上、日本人自身が、日本をこういう社会にしてしまったのである。他でもない我々の日々の生活がこの社会を形づくっているのだということ、この点に多くの人が気づくことなしには、状況は改善の方向には向かわないだろう。