麻原彰晃の死刑確定の報に接して

 既に数日前に報じられたニュースだが、問題の重大性に鑑みて、思うところを記しておきたい。問題とは、本当に麻原彰晃を死刑にしてよいのかどうか、ということである。(以下、麻原彰晃を本名(松本智津夫)で呼ぶべきかどうか、迷わないわけではないが、後で述べるように、彼の宗教者としての存在こそが究極のところで問題を成していると思われるので、麻原彰晃或いは麻原と呼ぶことにしたい。)


 まず、今回の死刑確定にまつわる奇妙さは明らかだろう。麻原が訴訟能力ありなのなら、当然ながら高裁、最高裁と、裁判が行なわれなければならないが、しかし実質的な裁判が行なわれたのは地裁段階においてのみだった。他方、訴訟能力なしなのなら、当然ながら訴訟手続きは停止しなければならなかった。日本の裁判制度(より正確に言えば、裁判官と検察官)が、こういう面倒な問題を一日も早く厄介払いしたいがために、死刑確定という今回の奇妙な決定がなされたという印象が否めない。毎日新聞解説記事は、最高裁の決定に当たっては、訴訟能力のある被告人(麻原)があえて弁護士と意思疎通を行なわず訴訟打ち切りという結果を自ら(好んで)招いたと認められるという、麻原の「自己責任」とする論法が使われたとしているが、その背後にあるのは、結局のところ、厄介払いしたいという願望なのではないだろうか。


 しかし、この裁判のような重大な裁判においては、麻原の精神鑑定は、日本の心理学者・精神科医の威信をかけて、総動員してでも行なって、黒白をはっきりさせるべきではなかっただろうか。詐病の可能性を指摘する論者(閲覧には無料登録が必要)もいたわけで(そして、そのような疑念はどこまでもついて回るだろう)、ここはきちっとやるべきだったと思う。


 ところで、死刑が確定した今となっては遅いかもしれないが、麻原のような人間を死刑に処するのが本当に良いかどうか、私は今なお疑問に思っている。毎日新聞の上記記事にもあるように、今でもオウム(現アーレフ)信者は麻原に帰依しているのだという。そうである限り、そしてオウムが例の、他人を殺すことがその他人にとって良い場合があるなどという、反社会的教義を完全に捨て去ってしまわない限り、オウムは社会に対して危険な存在であることをやめないのではないかと思われる。これではオウムの問題は、完全に解決したことにはならないのではあるまいか。


 そして問題なのは、オウムのそのような危険性は、麻原を死刑に処することによっては少しも薄まらず、むしろ高まる可能性すらあるという点である。なぜかというと、麻原が死んでしまえば、彼を神格化することはより容易になり、そして彼の神格化が一層進めば、いわゆる「ポア」を含む彼の教えを否定することはより困難になると懸念されるからである。


 この点は、キリスト教マニ教を想起すれば、より理解しやすくなるのではないかと思われる。誤解を防ぐために直ちに付け加えておくと、キリスト教マニ教も、オウムが有しているような反社会的教義をもってはいない(過去の宗教であるマニ教について言えば、そのようなものはもっていなかったと、過去形で言うのが正確だろうが)。ここで言いたいのは単に、キリスト教マニ教も、教祖がいなくなったため(もちろんキリスト教は、イエス・キリストは復活して昇天したと教えているわけだが)、その教祖を崇めることがより容易になったと思われる、という点である。その点でのみ、キリスト教マニ教の例は、オウムの問題を考える上で参考になるのだが、しかしこのことの意義は、案外大きいのではないかと思われるのである。


 麻原を死刑に処するのでなければ、ではどうしたらよいか。私見によれば、まず麻原は、動物園での終身公開独房刑に処するのがよい。もちろん、そのようなことを可能にする法律は現在存在しないが、つくればよいのである。「動物園での公開独房」の狙いは、言うまでもなく、麻原から聖性を奪い取ることである。そして次に、麻原がどうなるのであれ、オウム教団は、麻原への帰依を捨て、かつポアの教義を完全に捨て去らなければならない。これがあるからこそ、彼らは反社会的な集団であるとみなされても仕方がないのである。


 ただ、オウム教団の反社会性はそれには尽きないのではないか、という批判もあるかもしれない。曰く、彼らは共同生活を営み、社会と隔絶している、等々。オウムの人々の生態を私は知らないが、財産を共有にして、出家の際にはその出家者から財産の寄進を受けるなどしているのではないかと思われる。そして、そういうことも問題だ、とする人々もあるかもしれない。しかし、このような点までも問題にする気には私自身はなれない。なぜか。社会は、それへの参加を強制することが正しいというほどに、すべての人にとって居心地のよいものでは必ずしもない、と私には思えるからである。社会に背を向けながらなお生き続けることまでも否定する気にはなれない(もちろん例えば、寄進をめぐる法的な問題をどうでもよいことだなどと言いたいわけでは毛頭ないので、誤解のないようにお願いしたい)。