秋葉原での凶行事件から考えるべきこと


 まずは朝日新聞の記事へのリンクを掲げておくが、言うまでもなく、非道極まる犯罪であり、犯人は厳正に裁かれるべきだろう。


 当然ながら、今後考えるべきは、このような事件が起きないようにするにはどうしたらよいか、ということだろう。これに関して思うのは、例えば最近のメディアでは被害者関連の報道が数多く見られるが、このような報道は、やるなとまでは言えないが、しかしやったところで社会の改善には寄与しないだろうということである。そのような報道の帰結はせいぜいのところで犯罪の厳罰化だが、今回の凶行の犯人などは、このような犯罪に対する処罰が極刑であることを当然承知した上で凶行に及んでいるのだから、そのような犯罪者の前には厳罰化は無意味である。


 今回の事件からわかるのは、凶行に及んだ犯人は、心の闇とでも言うべきものを内に持っているということである。したがって、上で言ったような意味での社会の改善を図るのなら、その心の闇がどのようなものか、それにまず手が届くようにすることが必要だろうと思われる。


 と書いたところで、もちろん筆者ごときに、何がその心の闇か、どのようにしたらそのような闇を持つ人々の心が少しでも晴れるようになるか、といったことについて、明確な答えがあるわけではない。ただ、数日前に読んだ記事で、今回の問題を考える際に参考になるものがあるのではないか、ということを思っており、ここではそれを書いておきたいのである。


 史上初めて川端賞と三島賞を受賞した田中慎弥という作家が、朝日新聞の6月4日付け朝刊の文化欄(18頁)に「夢も希望もないから」という題で文章を寄稿していた。一言で言えば、自分がひきこもりであった頃の心境をありのままに綴ったもので、それを自慢してもいなければ貶めてもいない、そういう文章である。決して名文などではない。ただ、現代という時代、そして――私の思い違いでなければ――その現代という時代の闇の部分を、この文章は何かしらつかまえているような気がするのである。


 つまり、たぶん、いわゆる引きこもり(或いは、引きこもりをしている人のようなメンタリティーを持っている人々)の多くは、この作家が書いているような心情の中で漂いながら、今の世を生きている、というよりむしろ、田中氏の言い方を使うなら「世の中とか他人とじかに向き合うのをさける」のを事としているのだろう。その背後には、今の世で生きることに対する漠然たる嫌悪感――しかしその嫌悪感には、自殺の決行へと高まるほどのテンションはない――があるのだろうと想像される。しかし、そのようなメンタリティーを持っている人の中には、少数ながら、社会への憂さ晴らしをしようと思う人も出てくるのではなかろうか(そのような人の場合も、やはり、自分を殺すほどの意志の強さないしは病的な決断力は持ち合わせていないので)。以上の想像は、もちろん全く実証的でなく、言わば私の勘から出たものでしかない。しかし、もしこれが何ほどか的を射ているなら、そのような認識からの帰結として我々は、問題の発生源は今の社会それ自体にあると考えなければならないことになるだろう。


 では、今の社会をどのようにしていくことが、問題の解決につながりうるのか。ひょっとするとこの点についても、上記の田中氏の文章は一つの示唆を与えているのかもしれない。大変不遜ながら、私自身の見立てを述べるとすると、田中氏は、「夢も希望もないから」という文章を書いており、自分はひきこもりの一人だという立場を表明しているが、しかし、氏の経歴を見ると、既に数作の小説が発表されていることがわかる。自分の書いたものを社会に発表しようというのは、当然ながら、今の世の中に対する自らの関与の姿勢を示す行為であり、その点では、客観的に見て田中氏はいわゆるひきこもりを既に一歩抜け出していると見てよい。しかし、そのような氏があえて「夢も希望もないから」という題の文章を書くのはなぜかと言えば、思うに、氏は、何か雲行きが変われば自分はまたすぐにひきこもりに戻ることになるだろうし、その撤退の余地を残しておきたいと考えているのではなかろうか。言うまでもなく、文筆という分野で売れる売れないなどというのは全く博打的な話であり、しかも、文筆だけで生活が成り立つ小説家はいわゆる小説家のうちの極小部分だと考えてよい。それを思えば、田中氏が撤退の余地を残しておきたいと思うのは、充分理解できる話ではある。


 田中氏個人に即しすぎるのは筆者の本意ではない。文学賞を受賞する作品を書くなどということは、誰もが真似のできる話では決してないからである。むしろ、田中氏の例が示唆を与えているとすれば、それは、多様な評価の機会の重要性という点にあるのではなかろうか。つまり、社会で認められる文学賞のようなレベルでないとしても、何らかの機会に何らかの評価を受けることができれば、それをバネに人間は、より力強く生きることができるようになるのではなかろうか。そのような評価を受けずに来ることが、多くのひきこもりを生み、かつそのようなメンタリティーの人の中から、社会のはねっかえりとでも言うべき人々を生み出すのではなかろうか。


 最後に繰り返すが、以上の話は実証的な議論では全くない。したがって、筆者たる私の誤解も多々あるかもしれない。事実に基づいたご指摘があれば改めたいと思う。ただ、以上のような見方で説明できる事柄も、今回の凶行事件との関連で何がしかあるのではないか、というのが現在の筆者の考えである。