マニフェスト型選挙は議会制民主主義を死滅させるか?


 マル激トーク・オン・ディマンド 第330回(2007年07月19日)「この選挙で本当に問われているものは何なのか」では、例によって例のごとく、様々な話題がとりとめもなく語られていた。そのすべてをここで取り上げることはできないし、その必要もない。ただ、一、二ひっかかった点について、ここで記しておきたいまでである。


 まず、マニフェスト型選挙が近年行なわれるようになってきている(とされる、と付け加えておく)ことについて、ゲストの中村啓三氏が、「マニフェスト型選挙が行なわれるようになると、選挙で勝った政党はマニフェストで掲げた内容を実現しなければならなくなる。それは、議会での審議を形骸化させることになるのではないか」という趣旨の発言をしていた。果たしてマニフェスト型選挙は議会制民主主義を死滅させるのか?


 この点についての感想を一言で言うなら「何をおっしゃいますやら」である。大新聞の論説委員長経験者ともあろう人が、その程度の政治観察しかしていなくて良いのだろうか。まず、議会での審議の花形である予算委員会では、予算審議の名にかこつけて、ありとあらゆる問題が論じられる。これは(予算自体の審議時間が十分に確保されるなら――因みに、今の日本のやり方では時間が少なすぎると私は思う――)全然良いことなのであって、このような審議は、マニフェスト型選挙を行なおうがそうでなかろうが、なくなるものではないし、これをなくするべきではない。また、より法案に即して審議が行なわれる場合でも、少しでも国会審議を見たことがあればよくわかるであろうように、まともな審議が行なわれる場合には、その審議の場で検討される内容の細かさは、マニフェストで謳われる内容の比ではない。選挙で勝った政党がマニフェストを引っさげて国会に乗り込んだとしても、その程度の話では審議の必要性は少しも減じないのである。


 むしろ、まだまだマニフェスト型選挙の意味が理解されていないことの弊害こそが問題視されるべきである。例えば、以前にマニフェスト型選挙を行ない、今回もまた同種の選挙を行なうという場合、与党については、単に今後の政策に関するマニフェストの検討だけでなく、実績の検証という意味で過去のマニフェストの検討も行なわれなければならない。つまり、マニフェストの検討において、与党と野党とでは明確に違いがなければならないのだが、現状のところメディアはその差がはっきり読者に理解できるような報道を行なっているとは言いがたい(この違いをいったいどれほどの国民が理解しているだろうか)。


 さらに、マニフェスト型選挙が行なわれる場合、その選挙は決して単一の争点を争う形の選挙にはならない(なってはならない)。次の政権を担う政党が今後の政治全般に関して行なう約束、それがマニフェストなのであって、したがってマニフェストの内容は基本的に総花的たらざるをえないからである。このことを思うだに、2005年の総選挙が、マニフェストが掲げられた選挙だとは言いながら、メディアが小泉首相(当時)の「郵政民営化一本槍」というやり方を面白がって報道し、その結果、選挙において他の争点が後景に退くはめになってしまったことを、改めて思わずにはおられない。今回のマル激の番組紹介の記事では

与党自民党の前回の衆院選マニフェストを改めて見直してみると、自民党は安定多数を得た国会で、マニフェストの公約をことごとく実現してきていることがわかる。つまり、かつての選挙公約のような空手形の乱発とは異なり、マニフェストは、少なくとも与党に関する限りは、実現の可能性が極めて高い政策メニューの一覧となっている。

とあるが、あの時のメディアの報道の仕方ではそのような政策メニューの多くには光が当てられなかったと言ってよい。有権者に予め十分に知らしめてこそのマニフェストなのである。「マニフェストの紙には書いてありました」で済む話ではない。したがって、「マニフェストの公約をことごとく実現してきていることがわかる」といっても、そのマニフェストは実際には、(マニフェストの本義である)国民への約束を欠いた似而非マニフェストだったと評すべきである。


 かくて、先の総選挙後の自民党のやり口を見て「そんなこと聞いていない」と思う国民が多数いるのは故なき話でないのである。マニフェスト型選挙を実質的に空洞化させてしまった自民党(特に小泉自身)及びメディアの罪は大きいと言わざるをえない。こういう点を明確に批判しないでどうすると、マル激には苦言を呈するほかない。


 これ以外にも、番組で論じられた中で言及すべき論点があろうが(例えば民主党をどう評価するかについて)、政治をテーマとした番組では同様のことが手を変え品を変え問題になるわけなので、今回はこの程度にしておくことにする。


 それにつけても、議員の世襲は政治から駆逐されなければならない。