都知事選−−「日本の、世界の首都」東京を代表する人物としての都知事

 最初に一つ紹介を。このリンクをクリックすると浅野候補関係の選挙演説が見られる。浅野候補自身の演説についてはここではあえてコメントするまい。が、応援に来ていた中で、菅直人民主党代表代行が実に的確なことを言っていた。ここに採録しておくことにする。

「政治というのは、自分の自己表現のためにあるんじゃないんです。芸術家ならいいですよ。作家ならいいですよ。政治家というのは、自分のためにあるんじゃないんです。つまりは、人と人の関係、いろいろ困っているとか、国際的に問題があるとか、社会的に問題があるとか、そういう、人と人との関係を、いかにしてより良いものにしていくかというのが、私は政治の原点だと思いますが、いかがですか。(拍手)


 その政治の原点からしたら、石原さんというのは政治家じゃないんです。自分の自己表現のための行動を、政治という表現でしているだけの人なんですよ」。

 石原慎太郎は政治家ではない。政治家の名に値しない輩である。ここまで石原慎太郎の正体を見事に喝破し、化けの皮を剥いだ言葉を、私はほかに知らない。



 ところで今朝、石原候補のビラとおぼしきものと浅野候補のビラとおぼしきものが、新聞とともに届けられていた。なるほど、こんな場末へもビラが来るほどになったのかという感じだが、それにしても、「〜とおぼしきもの」と書かなければならないのが、何とも奇妙である。選挙戦の最中なのに、どうやら公職選挙法のせいでだろう、候補者の名前を明示できないようなのだ。今の選挙の規制のあり方はどう考えてもおかしいと言わざるをえない。


 いずれのビラも、対立候補を意識した、ほとんど二者択一的な内容となっていた。例えば石原候補のビラとおぼしきものでは、「Mr.フリーズ(知事3期)対Mr.再起動(知事2期)」というのが対立の構図となっている。こういうやり方は好かないという人も少なくないだろうが、私などは、論点と違いとがはっきりするからむしろ良いのではないかと思ったりしている。


 そこでビラを見ていて、目に留まったのが「日本の、世界の首都」という、石原候補のビラとおぼしきものにある表現である。へーえ。東京って、「日本の、世界の首都」だったんだ。知らなかった。
(因みに言うと、「日本の、世界の首都」という書き方は、何か文章上でどもっているようであり、あまりみっともよいものではないように私などには思われるのだが、まあそれはここでは問わないことにする。)


 しかし、それならば、である。東京が「日本の、世界の首都」(でもやっぱり、少しどもっている感じだが)ならば。


 その東京を代表するべき都知事が、アメリカに対してほえまくり、中国人に対してほえまくり、さらにフランスやフランス語を繰り返し馬鹿にしているのは果たして良いことだろうか。ちょっと(相当)、世界の首都の顔としてはみっともなさすぎではなかろうか。


 参考までに、フランスやフランス語を馬鹿にした石原氏の言葉を引用しておくことにする(引用元はこちら)。

  • 2002年6月19日 東京都議会第二定例会、山加朱美議員の代表質問に対する石原知事の答弁

 知事――〔・・・〕日本人は、どうも外国人に接するに非常に不器用で、非常にティミッドで、それがまた相手から誤解を受ける節がないでもないと思います。こういったものは、私たちが住んでいる世界が、時間的、空間的に狭くなることでだんだん淘汰されていくと思いますし、例えばフランス人のように、 ある意味で非常に頑迷な、片言のフランス語を話すと知らん顔をしてわからないようなふりをする、 そういった国民性も、今日ではかなり地方に行きましても、フランス人もまた英語をしゃべらざるを得なくなって、しゃべるようになりましたし、下手くそのくせに、日本語とか英語をしゃべって近づいてくるイタリアとはかなり対照的なフランスも、大分変わってきましたが(以下略)

  • 2003年2月12日、東京都議会第一回定例会、石井義修議員の代表質問に対する石原知事の答弁

 知事――今お話の中に、国語を苦手とする子どもが三○%、四○%いるということに、私いささかショックを受けました。今日の日本語が、正当な日本語であるかないかということは、人によって論が違うでしょう。時代が変わり、表現力が変わってくると、国語もまたその影響を受けて、ある世代から見ればわけのわからぬ言葉も流行するということでありまして、フランスのような国では、非常に保守的でありますから、過剰に自国語に自信を持ち過ぎて、ろくに数の勘定ができないフランス語というのは、やっぱり国際語として脱落していきましたが(以下略)

  • 2004年10月19日、The Tokyo U-club 設立総会における都知事の祝辞

 いずれにしろ〔東京都立四大学の廃止・統合、新大学の設立を〕実現していこうというふうにすると非常に抵抗がありまして、お釈迦様がかねがねおっしゃっていましたけど、人間てのは物事の変化ってものが一番怖い、新しいですね、事態というものを迎えいれることは、非常にできにくい、本質的に非常に保守的な動物生物でありますけれども、今度のこの大学の構想もですね、先般もなんかあの一部のバカ野郎〔経済学部のCOEグループ〕が反対して文部省の科学研究費、金が出なかった、あんなものどうでもいいです。こういうのを反対する連中はですね、本当に==、保守的というか退嬰的な人たちばかりでですね、誰がどうなのか私はつまびらかにしませんが、いずれにしろその過程で聞きましたのは、ドイツ語の先生が十数人いて受講者が4人しかいない、フランス語の先生が8人いて受講者がひとりもいない。私はフランス語昔やりましたが、数勘定できない言葉ですからね、これはやっぱり国際語として失格しているのもむべなるかなという気がするんですが(以下略)

  • 2005年9月16日 石原知事定例記者会見

【記者】アジアの大都市の水道事業の中で、東京都の水道の技術を、協力とかそういうものというのは、アジアネットを利用していく考えはありますか。
【知事】それはこちらも宣伝はしていますしね。ただ、フランスみたいにいいかげんな国が、かつての統治領だったインドシナ半島で何か事業に乗り出そうとしているけど、フランスの水なんか飲めたもんじゃないしね。みんな、だからエビアン飲んでいるんでね。(以下略)


 別に私はフランスが好きではないが、しかしいくらなんでも、フランス語を「数勘定できない言葉」と言い、しかもそれを公的な場で繰り返し言うのはいかがなものか。石原氏は、例えばこれによって自分が数学史におけるフランス人の功績に対して無知であることを露呈しているのに、全く気づいていないのだろう。


 東京都民が今回選ぶ都知事という職は、そんじょそこらの中小国(例えばヨーロッパで言えばベルギー)よりも財政規模の大きな自治体である東京都の、言わば大統領に当たる職なのである。その大統領にして、これほど品がないようで果たして良いだろうか。品のない大統領はブッシュ米大統領だけにしてもらいたいものである。


 余談だが、「Mr.再起動」と自称する以上、石原氏には、自らをいったんリセットして(つまり、これまでの人生のあり方をご破算にして)やり直すつもりがあるのだろうか。興味をそそられるところではある。