民主主義の基礎の危うさ

 誤解のないようにまず書いておくと、本ブログの今回のテーマは、民主主義がいかに壊れやすい土台に乗っているか、それを改めて考えるということである。民主主義は危険思想だなどというようなことを言いたいわけでは無論ない。


 こういう話を書く気になったのは、「竹中大阪高裁判事:首つり自殺か 「住基ネット違憲」判決」という報道を目にしたからである。同じ出来事は他のメディアでも報じられているが、一番踏み込んでいるのは、(自殺の状況など、ディーテイルを少々出しすぎのような気もしなくはないが)毎日新聞のこの記事のようである(なお、この記事及び判決自体については末尾の<補記>で論じた)。


 ただ、ここでは、今回自殺した判事が判決で扱った住基ネットの問題それ自体を扱いたいのではない。問題にしたいのはむしろ、今回のような判決−−部分的な問題がなくはないとはいえ、行政の暴走に待ったをかけたという意義で重要な判決だと思われる−−が出されることが、民主主義の基礎を考える上で何を意味しているか、ということである。


 国会を観察していると、時々「民主主義の原理は多数決ですから」などという言い方を耳にするが、これは正しくないだろう。確かに、国会で法案審議の最後に来るのは常に多数決であり、またそれだけでなく司法の場でも、裁判官の意見が分かれる場合には、多数決で判決が決められることがある(最高裁大法廷判決など)。しかし、それはあくまで二次的・次善的な方策なのであって、「民主主義の原理」などではないと言うべきだと思われる。


 ならば「民主主義の原理」と呼ぶにふさわしいものは何か。それは、「主権者が自分の納得がいくようにする(ことができる)こと」ではないかと私は考える。
(註記 間接民主主義の場合には、すべての点で自分の納得がいくようにすることは必ずしもできないかもしれない。主権者たる自分の与り知らないところで議員たちが勝手なことを決めている可能性は、大いにあるからである。ただ、これは間接民主主義に固有の問題であり、ここで論じたい「民主主義それ自体」というレベルにおける問題ではない。)


 例えば、民主主義における主権者にはさまざまな自由が与えられているが、それら自由は主権者をして、自分の納得のいくように身を処することを可能にさせていると言える(自分の納得のいく場所に住み、自分の納得のいく職業に就き、等々)。また、処罰が加えられる際には、その処罰は明文の法に基づいて加えられるのであり、それもまた、納得のいく処罰であると言うことができる。そして、法を実施する機関である行政府のやり方がおかしいと思ったならば、行政府を相手取って裁判を起こし、裁判官から道理に適った判決(つまり、自分の納得のいく判決)を獲得することが、少なくとも理屈の上では期待できる。「納得がいく」ということは、特に司法の分野において期待することができる(べきだ)と言えよう。


 ところが、立法府や行政府の場合よりも高い程度で「納得がいく」話が期待される(べき)司法の分野において、その納得性を支えているのは、結局のところ個々の裁判官なのであり、言うなれば一個の生身の人間でしかないのである。その生身の人間が何らかの形で脅かされることがあれば、それは、民主主義の原理である納得性を脅かしかねない。つまり、民主主義の基礎を揺るがしかねないのである。これは大げさに聞こえるかもしれないが、決して大げさな話ではないと思う。


 今回自殺してしまった裁判官は、ともかくも判決を出してから死んだ。そして、判決の後、どのような圧力を受けて死に至ったのか、それとも圧力を受けることなく全く別の理由から自殺したのかどうか、そのあたりは未だ判然としない。しかしいずれにせよ、判決を出している裁判官自身は生身の人間にすぎない−−このことが、今回の裁判官の自殺を通じて、改めて強く意識される。民主主義の基礎が奈辺に存するか、改めて想起してみたいと思った所以である。


 それにつけても、議員の世襲は政治から駆逐されなければならない。



<補記>
 この記事の中で考えさせられるのは次の部分である。

 原告側によると、訴訟は4月25日に結審し、竹中裁判長は判決期日を8月31日に指定。しかし、9月28日、10月31日、11月16日と順次延期し、最終的に同月30日まで計4回、判決期日を延ばす異例の経過だった。理由の説明はなかったが、原告側は「違憲判断にたどりつくまで時間が必要だったのでは」とみている。

 結審から4ヶ月後に判決というのは決して迅速と思えないが、それをさらに3ヶ月延ばしている。記されている原告側の推測が正しければ、裁判官が違憲判断という結論をまず得て、それに合う判決の論理を組み立てるのに、時間がかかったのだろう。これ自体は別におかしいことではなく、たいていの場合には結論はすぐ見えるのであって、それを法律とどのように整合させて判決文を書くかというあたりが、裁判官の力量の問われるところなのだろう。


 問題の判決に対して主要紙の中で触れているのは、例えば<住基ネット訴訟・大阪高違憲判決 制度の危険性批判>といった解説記事
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/jiken/archive/news/2006/12/01/20061201ddm012040149000c.html
のたぐいを別にすると、読売新聞の12月2日づけ社説<[住基ネット]「危険性を過大視した高裁判決」>
http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20061201ig90.htm
である。題から明らかなように、この社説は判決に対して相当批判的である。これについて一言しておくと、読売の社説の批判点の1つは

 判決は、防衛庁自衛官募集に際し、自治体から得た個人情報を、問題例として挙げた。4情報のほか募集対象者の健康状態の情報も受け取り、データベース化していたことが3年前に発覚した。
 「個人情報が際限なく集積・結合されて利用されていく危険性が具体的に存在する」と、判決は述べた。しかし、この一例だけをもって、住基ネットが危険だと言えるのか。
 これは、住基ネットそのものの問題ではない。情報管理のあり方が問われたに過ぎず、個人情報保護法の施行後には、こうした対応は考えにくい。

というところである。「個人情報が際限なく集積・結合されて利用されていく危険性」は果たして「住基ネットそのものの問題ではない」のかどうか。むしろ、これこそが住基ネットの本質にかかわることなのではないか。集積・結合のためにこそ、一元的管理は有用なのである。この点では裁判長の判決の方が妥当だろう。


 読売の社説のもう1つの批判点は

 判決は、本人が情報の提供や利用の可否を決める「自己情報コントロール権」が侵害されたという。しかし、これはまだ確立した法概念ではない。

というところで、これは確かに社説が言うとおりかもしれない。言われているように、「自己情報コントロール権」は例えば政治家の保身のためにも使われかねないのだから。


<追記>(12月13日)
 ここで取り上げた裁判官の死について、興味深いブログを見つけたのでリンクを掲げておきたい。
http://www.d-mc.ne.jp/blog/kawada/article.php?id=182