民主主義について
今の日本の社会を見、また政治を見ていて、改めて民主主義という理念の捉え返しの重要性を思わずにはいられない。
新約聖書によれば、イエス・キリストは「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」と言ったとされる。ここで、「神の口から出る一つ一つの言」という言葉を「理念」ないし「理想」と言い換えるなら(或いはさらに「夢」と言い換えても良いかもしれない)、キリスト教徒でない人であってもこの言葉の正しさに納得するのではなかろうか。つまり、人間が生きるためには「理念」は重要なのである。民主主義はそのような理念の一つであるはずであり、またそうでなければならない――もし我々が民主主義的社会を維持していこうとするのであれば。
以下ここでは、民主主義に関する考察を書き留めておくことにする。
1.民主主義の根本にあるのは、民が主権者であるという考えである。
(因みに、今日(2006年12月17日)ウィキペディアを参照したところ、「民主主義(みんしゅしゅぎ)とは、個人の人権(自由・平等・参政権など)を重んじながら、多数による意思をもって物事を決める原則をいう」とあった。以下に述べるように、民主主義を説明する際に多数決を前面に立てるこのような考えこそ、まず以て打破されなければならない。)
「民」と書くと集合名詞であるかのように思われるかもしれないが、そうではなく、国民一人一人、或いは市民一人一人が主権者であるということがここで言いたいことである。ただ、「国民」にしても「市民」にしても、「国」或いは「市」という限定辞が加わっているので、ここではそのような限定を避けたまでである。(もちろん、「市民」という語には、行政単位としての市の住民という意味のほかに、まさに主権者を論じる文脈における「民」として使う用法があることは承知している。ただ、そうだとすると、「市民」という語は多義的であることになり、また別の問題が生じることになる。また、他の候補として考えられる「人民」という語には、現実の語法上、社会主義的・共産主義的な意味合いがつきまとっている。そのようなニュアンスをここで出したいわけではないので、「人民」という言葉もここでは使わない。)
2.民が主権者であるというところから、平等という観念が帰結する。なぜなら、ここで想定される民は大勢いるわけであり、そしてその大勢の人々の個々人の間には、主権者として何らの差異もないと言わなければならないからである。
つまり、民主主義は平等という観念を論理必然的に内包すると言わなければならない。換言するなら、平等は民主主義の不可欠の構成要素である。
そして、民主主義が平等という観念を内包するということは、民主主義という理念に、理想的或いは(誤解を恐れずに言えば)非現実的性格を付与する。なぜなら、人間社会における最も基本的な事実は、個々人の生得的な状況・能力が異なるという点にあり、その結果、個々人の活動の結果(例えば、働いて獲得する富の量)は異なりうるからである。いかなる問題に関しても、個々の人間が活動するのを放任するなら、言い換えれば個々の人間を自然状態において活動させれば、活動の結果は、人々の間で必ず異なったものとなる。つまり、自然状態のままでは平等は決して実現されないのである。したがって、平等はそれ自体では非現実的であり、平等の実現は必然的に、理想の実現という性格を帯びることとなる。
したがって、民主主義はつねに理想としての性格を有すると言わなければならない。言い換えるなら民主主義は、その十全な実現のための努力を必要とする、そのような理念なのである(もっとも、およそ理念なるものは、そういうものなのかもしれないが)。要するに民主主義は、ただ座っていて与えられるようなものではない、ということである。
3.政治学の説明などにおいては、いわゆる人権は、民主主義の構成要素として提示されては必ずしもいないかもしれない。しかし、人権は、民が主権者であるがゆえに有するものである、と理解してよいのではなかろうか。
このように考えた場合、解くべき問題が少なくとも2つ生じる。第1の問題は、或る国に住んでおりかつその国で参政権を有しない人は、その国における主権者だとは言えないことになるが、上記のような考え方によればそのような人はその当の国において人権を有しない(少なくとも、十全な人権を有しない)ことになるのか、という問題である。第2の問題は、或る民主主義国の国民が或る君主制国家に行った或いは住んだ場合、その人はその君主制の国においては、主権者でない以上、人権を有しない(少なくとも、十全な人権を有しない)ことになるのか、という問題である。
第2の問題の方が容易に答えられるだろう。すなわち君主制の国では、君主でない人は十全な人権を有しないと言ってよいと思われる。なぜなら、君主の一存で、例えば移動の自由や職業選択の自由が制限されることがありうるからである。しかしながら、民主主義の観点からするなら、そのような事態は、君主制の国では人々は十全な人権を有しない、という形で把握されるのではなく、むしろ、君主制の国では人々の人権は損なわれている、という否定的価値判断(単なる事実認識の対極にあるものとしての価値判断、という意味で言っている)の形で把握されることになるだろう。民主主義とは君主制の全面的否定であり、民主主義(或いは、より正確に言えば、民主主義的精神)は本来いかなる意味でも君主制を容認しないはずだからである。(なお、言うまでもないが、ここで言う君主制とは絶対君主制のことである。私見によれば、立憲君主制なるものは竹に木を接いだ体制であり、現実的妥協の産物ではありえても、民主主義といった理念を論理的に反省する際の考察対象とするにはふさわしくない代物だと言わざるをえない。)
第1の問題は、憲法において「国民」と「人」とをどう使い分ければ良いか、という問題に通じるものである。民主主義の観点からすれば、人は本来生まれつき「主権者」なのである。「主権者」という語をそのような意味に解するなら、「参政権を有しない人は、主権者だとは言えない」という言い方は正しくない、或いは、使う必要がない、ということになる。或る国で参政権を有しない人は、たまたま自らの主権の一部が何らかの事情で停止しているだけであり、その人が本来主権者であることには何ら変わりがない、というわけである。「自らの主権の一部が何らかの事情で停止しているだけ」という論理は、未成年者すなわち参政権を未だ得ていない国民に対しても適用できよう。以上のように考えてくると、憲法においては、基本的に「人」(或いは、ここで使っている意味での「民」)という語を使うべきであり、「国民」という語の使用はなるべく少なくするのが望ましいということになろう。或いは、当の国(日本国なら日本国)に住む者という意味で、「住民」(英語で言えばresident)という語の使用が望ましいと言ってよいかもしれない。
4.ところでなぜ、「人権は、民が主権者であるがゆえに有するものである」と言うことが妥当なのか。その理由は、主権者とはどういう存在だと理解されるべきか、という問いを考えることによって明らかになる。
主権者とはどういう存在か。主権者とは、自分に関することについて自己決定を行なうことができる存在のことである。例えば、居住、移転及び職業選択の自由がある(憲法第22条1項)とは、自分で決めたところに住み、或いは移り住み、自分で選んだ職業に従事することができるということである。
(ここで、「自己決定が行なえると考えるのは幻想である」というような言い方を私は全く知らないわけではないが、たぶんそのような言い方が問題にしているのは、自己決定の際に判断材料となる情報が十全なものかどうか、といった点ではなかろうか。そのような、情報の完全性の問題は、とりあえずここでは措いておいてよいと思われる。)
では自己決定とはどういうことか。自己決定とは、自分の決断を納得づくで行なうことである。ここで重要なのは、納得である。なぜなら、他人から強要されて下す決断は、自己決定の名に値しないからである。納得があってこそ初めて、自己決定は十全な意味で自己決定たりうる。
民主主義が成文法による支配と表裏一体を成すのは、民主主義におけるこのような意味での自己決定(したがって、納得)の根本的重要性に由来すると思われる。すなわち、(法律用語の難解さといった問題はあるが、少なくとも建前上)読んで理解できる成文法が、しかも予め、存在するからこそ、それらを踏まえて納得づくで、自己決定を行なうことが可能となるのであり、また、法に違反した場合、どういう意味で法違反があったかについて、納得することが可能となるのである。このあたりは、民主主義的な司法制度のあり方について振り返ってみるなら、贅言を費やさずとも理解可能だろう。
つまり、民主主義においては、自己に関することについて自分が納得するということが極めて重要なのである。言い換えるなら、民主主義とは、可能な限り個々人の納得を尊重する、そのような政治のあり方だと言ってよいだろう。
このように考えてくることによって、多数決が民主主義の根本原理であるとするような考えが誤りであることがわかるだろう。確かに、平等な主権者同士が或る問題について異なる意見を有して対立する場合、主権者の総意をまとめて何らかの決定がなされるためには、終極的には多数決による採決が必要となるだろう。しかし、それはあくまでも最終段階での話である。個々人の納得を尊重する政治思想、それこそが民主主義だという考えに立つなら、なすべきは、時間その他の制約の中で許される限り議論を行なうことであり、それによって、意見の相違の由って来たる所以が明らかにされ、なぜ多数派と少数派の間で意見の違いが生じるのか、その違いを最もよく調停するにはどうしたらよいかといったことが話し合われることが望ましい、否、必要不可欠なのである。この点は、政体が直接民主主義であろうと議会制民主主義であろうと同じである。
(書きかけ)
0.最後に、言うまでもなく民主主義は一個のイデオロギーである。しかし、民主主義は、それが社会を構成する基本原理として機能するためには、一個のイデオロギーというような、相対化されうる地位を与えられてはならず、例えば人間は生まれながらに平等である、例えば人間は生まれながらに基本的人権を有する、という形で、民主主義の諸構成要素は生得的なものであると理解される(正確に言えば、擬制される)のでなければならず、そして、そのような理解(正確に言えば、擬制)に立脚して法律が制定されるのでなければならない。つまり、民主主義とは、その実現のためには自らの擬制的性格を完全に否定するのでなければならない、そのような理念なのである。
(とはいえ、そのような擬制に基づいて法律が制定されたとしても、その法律が実際に運用されるなら、擬制はもはや擬制ではなくなる。つまり、民主主義に基づいて制定された法律が実際に運用されることは、民主主義の擬制的性格を(消失させる、とまで言わないとしても)覆い隠す効果を有する、と言うことができる。)
追記
トラックバックで上記の記事への批判をいただいた(批判を書いておられるのはずいぶん若い方のようだが、年齢はこの際問題でないだろう)。これに対する私の感想はこちらのページで書くことにする。