飲酒運転追放キャンペーンよりも必要なこと

 昨日(9月25日)の「クローズアップ現代」では飲酒運転をどう防止するかに関する番組が報じられていた。飲酒運転追放、もちろん結構なことである。しかし、それ以上に根本的に重要なことが教えられる必要があると、私はつねづね思っている。それは、自動車(二輪車を含む。以下同様)は殺人可能な機械である、ということである。この点への注意の喚起が、教習時から始まるあらゆる機会を通じて、運転者に対して徹底されるべきだと考える。


 自動車運転免許はなぜ必要なのか、何のために与えられるのか。言うまでもなく、危険物を安全に取り扱うために免許は必要とされるのであり、免許保持者は、自分は危険物を扱っているのだという自覚のもとに、当の危険物−−つまり、自動車−−を扱う必要があるのである。こういうことはもっと声高に言われるべきことだと思うが、そうなっていないのは、自動車メーカーへの遠慮があるからなのだろうか。しかしそのような遠慮は、人命の価値を軽視する遠慮だと言わざるをえない。同じ観点から見て、自動車の快適さを宣伝するコマーシャルは、それだけが強調されるようでは大いに問題だと言わざるをえない。そういう宣伝をやるなとまでは言わないが、たばこの宣伝の際、たばこが人間の健康を害する恐れがあるという文言を表示することが義務づけられているように、自動車の宣伝の時にも、安全な運転を行なう義務への注意を喚起する言葉が付け加わることがあってよいのではなかろうか。


 さらに言えば、危険物を取り扱うための免許という観点から言えば、飲酒運転をするということは、危険物を適当に取り扱うための条件を損なうことになると言えるのではあるまいか。こういう論理からすれば、事故の際に飲酒運転が発覚したなら、その運転者は適格性を欠いた状態で運転していた、つまり無免許で運転していたと自動的にみなされるべきではあるまいか。上記TV番組では危険運転致死罪の適用の難しさが語られていたが、今述べたような考え方で飲酒運転を無免許運転とみなすことによって(かつ、免許取得者が自らをわざと無免許状態にして運転したことによる加算があってよい)、重罰を科することは可能なのではなかろうか。免許の永久剥奪があってすら良いと思う。


 それにしても、最近自動車で走るたびに思うのは、自己中心的な身勝手な運転者が増えたということである。信号が変わる直前、或いは変わる時まで方向指示を出さない運転手がよくいるが、そういう運転者は他人に自分の行動を悟られたくないからそのようにしているのだろうか。しかし、それは事故を惹起しうる危険行為なのである。また、前方の信号が赤の時に、信号のところまでのろのろ走る車も少なくない。自分の車だけの合理性から言えば、そうやりたい気はわからないではないが、道路は公共の場なのであって、自分が勝手に長々と占拠してよい場所なのではない。信号の手前で曲がりたい車だってあるかもしれないのであり、そういう車の前にいる車がのろのろ走ることは、後ろの車に迷惑をかけることになる−−この程度のことぐらい、自分で考えればわかりそうなものである(自分だって後ろで走ることはあるのだから)。もちろん最も問題なのは、周囲の安全に対して配慮しない自動車である−−そういう自動車が昔に比べて増えているかどうかはわからないが−−。